日米エアフォース友好協会(JAAGA)No.66にメンバーである荒木淳一が投稿した記事を転載しました。
「冬廣」と呼ばれる一振りの日本刀が多くの人々の努力によって米国から日本に返還されたこと紹介した記事(JAAGA便り第63号(16 December 2022))をご記憶であろうか。日本刀の返還に纏わる数奇な「軌跡」をJAAGAとAFA(米空軍・宇宙軍協会)の関係者の熱意と努力の賜物として起こった細やかな「奇跡」と捉えた記事である。執筆者の池田理事は、日本刀返還事業の重要な関係者の一人でもある。
その詳細は、当該記事をご覧頂くとして、概要は次の様なものであった。米空軍将校の奥様カーショウ夫人が、ご両親から譲り受けた一振りの日本刀をその故郷である日本に返すというご主人の遺志を叶えたいと願い、その糸口を探し続けてきたことに端を発する。長年の努力にもかかわらず叶わなかったその願いをAFA会長であるライト氏(元在日米軍司令官、JAAGA名誉顧問)に託し、それがJAAGA関係者に伝えられたのであった。
JAAGAの複数の理事がプロジェクトチームを組み、その方法を検討し、ようやく道筋が見えてきたのは一年後のことであった。しかし、コロナ禍によって、返還実現までに更に2年待たなければならなかった。20221年JAAGA訪米事業の際、訪米団団長の杉山JAAGA会長(当時)に託されて、日本刀はようやく日本に持ち込まれた。その後も様々な手続きを経ながら、岡山県の備前長船刀剣博物館に寄贈されたというものである。
このキセキの物語には「続き」が存在した。今年1月に一つの節目を迎えた物語の「続き」を紹介させて頂きたい。併せて僅かばかりではあるが関与させて頂いた者としての所感を述べたいと思う。
昨年9月のJAAGA訪米団との懇親会において、ライト氏から12月末に訪日し、ご家族と共に日本で過ごす予定であることが告げられた。その際、かつて自分が日本で勤務した際、お世話になった自衛隊関係者にお会いしたいとの要望があり、訪米事業でライト氏との調整窓口を務めていた筆者がそのお手伝いを引き受けることになった。
元統幕議長や統幕3室長、千歳・三沢基地司令、統幕長、空幕長等々の大先輩方の連絡先を確認するのに少々手間取ったが、都合のつく方は皆様喜んで参加を表明された。歴代のJAAGA会長・関係者も招待されたが、代表して参加されることとなった現丸茂会長から、「冬廣」はその後どうなっているのかを確認するようご指示があった。池田理事を通じて寄贈先の備前長船刀剣博物館に確認したところ、思いがけないニュースが飛び込んできた。
そもそも「冬廣」は600年以上前の室町時代の作であり、研ぎを含めて展示できる状態にするのに数年かかると言われていた。期間限定ではあるものの既に展示・公開されているという事実は驚きと同時に嬉しいニュースであった。
加えて、来日する外国人観光客を含めて日本刀に興味を持つ外国人が増えていること、その様な外国人向けに英語等で発信する市の職員、博物館員がいること等が、岡山県のNHKニュースで取り上げられた。その中で日米関係者の努力によって米国から持ち帰られた「冬廣」の物語についても若干の紹介があったということであった。(URL:参照)
この二つのニュースは、勿論、12月末にニュー山王ホテルで開かれたライト氏主催のレセプションで紹介され、大いに話が盛り上がった。ライト氏を始め参加者一同が日米同盟の強い絆を象徴する話だとして大いに盛り上がり、会の中締めの発声は「日米同盟万歳」であった。
この会では、ライト氏の日米同盟強化に果たされた長年のご貢献並びに日本刀返還に対するご尽力に対する感謝の意を込め、参加者一同で目録付きの居合刀をプレゼントさせて頂いた。帰国されたライト氏からは、居合刀をご自宅の一番目立つ場所に飾っている写真が送られてきた。この居合刀は今後もAFAとJAAGAの交流の中で長く語り継がれるものになると考える。
このような状況を、そもそもの日本刀の所有者であったカーショウ夫人にもお知らせすべきと考え、筆者から「冬廣」が展示されている写真やライト氏とのレセプション時の写真などをメールとともに送らせて頂いた。ご婦人からのメールには丁寧なお礼の言葉とともに、生前、ご主人が日本刀のことを最初に相談し、親身にアドバイスしてくれた「Josyu Yamaguchi」氏にも返還が叶ったことを知らせたい、連絡先が分からないだろうかとお尋ねがあった。
1990年代のことであり、場所もベオグラードとのこと、更には「Josyu」という本名か、敬称かの区別もつかない名前であることから、雲をつかむような話であった。しかし、カーショウ夫人とのやり取りを振り返っているうちに、ご主人が米空軍の駐在武官であったことを思い出した。ひょっとして「Josyu Yamaguchi」氏は、旧ユーゴスラビアに駐在武官として派遣されていた陸自の方ではないかと思いついた。勤務先で同僚の陸OBの後輩に駄目もとで尋ねたところ、陸自OBの山口浄秀氏(B17、初代即応集団司令官)ではないかとの回答を得ることができた。彼が偶然にも年賀状のやり取りをしているということで、ご住所を教えて頂くことができた。私と同じ千葉県柏市に在住ということを知り、不思議な巡り合わせを感じた。
不躾を承知で、「冬廣」を巡る経緯が記載されたJAAGA便りや関連する写真、カーショウ夫人とのメールのやり取りなどを同封して手紙を差し上げた所、直ぐに電話がきた。JAAGAが日本刀返還を実現してくれたことに対する感謝の言葉を山口氏から直接頂くことができた。
「冬廣」に纏わる最初の糸口であった山口氏にカーショウ大佐・夫人の願いが叶ったことを伝えることができたのも、数々の奇跡のような巡り合わせのおかげであり、「冬廣」を巡るキセキの物語の「続き」であると感じた。「冬廣」を日本に帰したいという願いを共有したほぼすべての関係者がその実現を確認できたことで、このキセキの物語にも一応の終止符が打たれたように思う。
そもそもこのキセキの物語は、日本に駐留していたご両親から譲り受けた日本刀が武人の魂であることを理解し、それに対する尊崇の念を持ち、返還したいと願ったカーショウ大佐の想いが無ければ始まらなかった。又、日本の文化や日本刀が持つ深い意味合いを教え、返還の手掛かりをアドバイスしてくれた山口氏の存在が無ければ、その後の話に繋がらなかったかもしれない。
ご主人が無くなられた後も、その遺志を継いで返還の道を探り続けたカーショウ夫人の熱い想いが無ければAFA会長のライト氏までその願いは届かず、ライト市が動くことはなかったであろう。ライト氏の依頼に誠心誠意応えようとした歴代の米国防衛駐在官の皆様の努力の積み重ねが無ければ、最後の頼みの綱としてJAAGA顧問の永岩氏にその願いが託されることは無かった。
そしてJAAGAの事業としてこの返還プロジェクトを主導した福江氏(当時、JAAGA理事長)並びに池田理事を始めとする関係理事の真摯な取り組みが無ければ返還の道筋は見えなかった。そして今回紹介したキセキの物語の続きが一つの区切りを迎えることが出来たのは、ライト氏のお世話になった自衛隊関係者に対する尊敬と感謝の気持ちを伝えたいという想い、ライト氏訪日に当たって「冬廣」の現状を事前に確認させた丸茂会長の細やかな気配り、そしてなにより返還が実現した事実を山口氏にも伝えたいというカーショウ夫人の願いのお陰である。
「冬廣」を巡る長いキセキの物語を振り返ってみると、日米同盟の基盤をなす日米空軍種間の強い絆の力を感じる。何より、国防と言う崇高な使命にその命を捧げる軍人同士の尊敬と信頼で紡がれた人と人との絆や、軍人家族がその職業に敬意を持ち、利他の精神に基づく行いを貴ぶ気持ちが共有されていたことが空軍種間の繋がりの根源にあるように思える。
かつて干戈を交えた日米両国が戦後78年の苦難を乗り越え、今や世界で最も重要な同盟関係を築き上げてこれたのも、お互いの歴史や文化に対する相互理解のみならず、お互いを武人として尊敬し合い、一人一人が絆を紡ぐ努力を積み重ねてきたからにほかならない。目に見えない小さな想いや利他の心での行いの積み重ねが日米同盟の強固な礎の一部となっていることは間違いない。
「冬廣」を巡るキセキの物語にほんの少しでも携わった者として、日米同盟の更なる強化に寄与するためにJAAGAとAFAの絆を強めること、空自と米空軍・宇宙軍との更なる関係強化を後押しする活動を真摯に続けていきたいと改めて強く思った次第である。
「冬廣」を巡るキセキの物語に込められた日米空軍種間の相手に対する尊敬や信頼、更には利他の心が、現役の航空自衛隊員に継承され続けることを願って止まない。