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日本刀「冬廣」-キセキの物語の続き-:令和6年6月21日 荒木淳一

日米エアフォース友好協会(JAAGA)No.66にメンバーである荒木淳一が投稿した記事を転載しました。

 

 「冬廣」と呼ばれる一振りの日本刀が多くの人々の努力によって米国から日本に返還されたこと紹介した記事(JAAGA便り第63号(16 December 2022))をご記憶であろうか。日本刀の返還に纏わる数奇な「軌跡」をJAAGAとAFA(米空軍・宇宙軍協会)の関係者の熱意と努力の賜物として起こった細やかな「奇跡」と捉えた記事である。執筆者の池田理事は、日本刀返還事業の重要な関係者の一人でもある。

 その詳細は、当該記事をご覧頂くとして、概要は次の様なものであった。米空軍将校の奥様カーショウ夫人が、ご両親から譲り受けた一振りの日本刀をその故郷である日本に返すというご主人の遺志を叶えたいと願い、その糸口を探し続けてきたことに端を発する。長年の努力にもかかわらず叶わなかったその願いをAFA会長であるライト氏(元在日米軍司令官、JAAGA名誉顧問)に託し、それがJAAGA関係者に伝えられたのであった。
 JAAGAの複数の理事がプロジェクトチームを組み、その方法を検討し、ようやく道筋が見えてきたのは一年後のことであった。しかし、コロナ禍によって、返還実現までに更に2年待たなければならなかった。20221年JAAGA訪米事業の際、訪米団団長の杉山JAAGA会長(当時)に託されて、日本刀はようやく日本に持ち込まれた。その後も様々な手続きを経ながら、岡山県の備前長船刀剣博物館に寄贈されたというものである。


 このキセキの物語には「続き」が存在した。今年1月に一つの節目を迎えた物語の「続き」を紹介させて頂きたい。併せて僅かばかりではあるが関与させて頂いた者としての所感を述べたいと思う。
 昨年9月のJAAGA訪米団との懇親会において、ライト氏から12月末に訪日し、ご家族と共に日本で過ごす予定であることが告げられた。その際、かつて自分が日本で勤務した際、お世話になった自衛隊関係者にお会いしたいとの要望があり、訪米事業でライト氏との調整窓口を務めていた筆者がそのお手伝いを引き受けることになった。
 元統幕議長や統幕3室長、千歳・三沢基地司令、統幕長、空幕長等々の大先輩方の連絡先を確認するのに少々手間取ったが、都合のつく方は皆様喜んで参加を表明された。歴代のJAAGA会長・関係者も招待されたが、代表して参加されることとなった現丸茂会長から、「冬廣」はその後どうなっているのかを確認するようご指示があった。池田理事を通じて寄贈先の備前長船刀剣博物館に確認したところ、思いがけないニュースが飛び込んできた。
 そもそも「冬廣」は600年以上前の室町時代の作であり、研ぎを含めて展示できる状態にするのに数年かかると言われていた。期間限定ではあるものの既に展示・公開されているという事実は驚きと同時に嬉しいニュースであった。
 加えて、来日する外国人観光客を含めて日本刀に興味を持つ外国人が増えていること、その様な外国人向けに英語等で発信する市の職員、博物館員がいること等が、岡山県のNHKニュースで取り上げられた。その中で日米関係者の努力によって米国から持ち帰られた「冬廣」の物語についても若干の紹介があったということであった。(URL:参照)


 この二つのニュースは、勿論、12月末にニュー山王ホテルで開かれたライト氏主催のレセプションで紹介され、大いに話が盛り上がった。ライト氏を始め参加者一同が日米同盟の強い絆を象徴する話だとして大いに盛り上がり、会の中締めの発声は「日米同盟万歳」であった。
 この会では、ライト氏の日米同盟強化に果たされた長年のご貢献並びに日本刀返還に対するご尽力に対する感謝の意を込め、参加者一同で目録付きの居合刀をプレゼントさせて頂いた。帰国されたライト氏からは、居合刀をご自宅の一番目立つ場所に飾っている写真が送られてきた。この居合刀は今後もAFAとJAAGAの交流の中で長く語り継がれるものになると考える。


 このような状況を、そもそもの日本刀の所有者であったカーショウ夫人にもお知らせすべきと考え、筆者から「冬廣」が展示されている写真やライト氏とのレセプション時の写真などをメールとともに送らせて頂いた。ご婦人からのメールには丁寧なお礼の言葉とともに、生前、ご主人が日本刀のことを最初に相談し、親身にアドバイスしてくれた「Josyu Yamaguchi」氏にも返還が叶ったことを知らせたい、連絡先が分からないだろうかとお尋ねがあった。
 1990年代のことであり、場所もベオグラードとのこと、更には「Josyu」という本名か、敬称かの区別もつかない名前であることから、雲をつかむような話であった。しかし、カーショウ夫人とのやり取りを振り返っているうちに、ご主人が米空軍の駐在武官であったことを思い出した。ひょっとして「Josyu Yamaguchi」氏は、旧ユーゴスラビアに駐在武官として派遣されていた陸自の方ではないかと思いついた。勤務先で同僚の陸OBの後輩に駄目もとで尋ねたところ、陸自OBの山口浄秀氏(B17、初代即応集団司令官)ではないかとの回答を得ることができた。彼が偶然にも年賀状のやり取りをしているということで、ご住所を教えて頂くことができた。私と同じ千葉県柏市に在住ということを知り、不思議な巡り合わせを感じた。
 不躾を承知で、「冬廣」を巡る経緯が記載されたJAAGA便りや関連する写真、カーショウ夫人とのメールのやり取りなどを同封して手紙を差し上げた所、直ぐに電話がきた。JAAGAが日本刀返還を実現してくれたことに対する感謝の言葉を山口氏から直接頂くことができた。
 「冬廣」に纏わる最初の糸口であった山口氏にカーショウ大佐・夫人の願いが叶ったことを伝えることができたのも、数々の奇跡のような巡り合わせのおかげであり、「冬廣」を巡るキセキの物語の「続き」であると感じた。「冬廣」を日本に帰したいという願いを共有したほぼすべての関係者がその実現を確認できたことで、このキセキの物語にも一応の終止符が打たれたように思う。


 そもそもこのキセキの物語は、日本に駐留していたご両親から譲り受けた日本刀が武人の魂であることを理解し、それに対する尊崇の念を持ち、返還したいと願ったカーショウ大佐の想いが無ければ始まらなかった。又、日本の文化や日本刀が持つ深い意味合いを教え、返還の手掛かりをアドバイスしてくれた山口氏の存在が無ければ、その後の話に繋がらなかったかもしれない。
 ご主人が無くなられた後も、その遺志を継いで返還の道を探り続けたカーショウ夫人の熱い想いが無ければAFA会長のライト氏までその願いは届かず、ライト市が動くことはなかったであろう。ライト氏の依頼に誠心誠意応えようとした歴代の米国防衛駐在官の皆様の努力の積み重ねが無ければ、最後の頼みの綱としてJAAGA顧問の永岩氏にその願いが託されることは無かった。
 そしてJAAGAの事業としてこの返還プロジェクトを主導した福江氏(当時、JAAGA理事長)並びに池田理事を始めとする関係理事の真摯な取り組みが無ければ返還の道筋は見えなかった。そして今回紹介したキセキの物語の続きが一つの区切りを迎えることが出来たのは、ライト氏のお世話になった自衛隊関係者に対する尊敬と感謝の気持ちを伝えたいという想い、ライト氏訪日に当たって「冬廣」の現状を事前に確認させた丸茂会長の細やかな気配り、そしてなにより返還が実現した事実を山口氏にも伝えたいというカーショウ夫人の願いのお陰である。


 「冬廣」を巡る長いキセキの物語を振り返ってみると、日米同盟の基盤をなす日米空軍種間の強い絆の力を感じる。何より、国防と言う崇高な使命にその命を捧げる軍人同士の尊敬と信頼で紡がれた人と人との絆や、軍人家族がその職業に敬意を持ち、利他の精神に基づく行いを貴ぶ気持ちが共有されていたことが空軍種間の繋がりの根源にあるように思える。
 かつて干戈を交えた日米両国が戦後78年の苦難を乗り越え、今や世界で最も重要な同盟関係を築き上げてこれたのも、お互いの歴史や文化に対する相互理解のみならず、お互いを武人として尊敬し合い、一人一人が絆を紡ぐ努力を積み重ねてきたからにほかならない。目に見えない小さな想いや利他の心での行いの積み重ねが日米同盟の強固な礎の一部となっていることは間違いない。
 「冬廣」を巡るキセキの物語にほんの少しでも携わった者として、日米同盟の更なる強化に寄与するためにJAAGAとAFAの絆を強めること、空自と米空軍・宇宙軍との更なる関係強化を後押しする活動を真摯に続けていきたいと改めて強く思った次第である。
 「冬廣」を巡るキセキの物語に込められた日米空軍種間の相手に対する尊敬や信頼、更には利他の心が、現役の航空自衛隊員に継承され続けることを願って止まない。

ベルグラード勤務時のカーショー夫妻
一般公開された時の日本刀「冬廣」
JAAGAがライト会長に居合刀を贈った際のレセプション
ライト会長ご自宅に飾られた居合刀

「戦略3文書を「画餅」にしてはならない」(令和5年4月:荒木淳一)

この記事は、公益法人隊友会の新聞「隊友」4月号の「発煙筒」欄に投稿した記事を転載したものです。

 

 昨年末に閣議決定された、国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画のいわゆる戦略3文書に対する評価は極めて高い。
 従来、法的には可能であるものの政治的に保有しないこととされてきた「反撃能力」の保有に踏み切ったことや防衛費を対GDP比2%を目標に増額すること等、戦後の防衛政策を大転換させたからに他ならない。
 しかし、戦略3文書が画期的なのは、戦後の我が国における空想的な一国平和主義、米国依存、国内政治優先といった考え方から脱却し、厳しい現実を直視し、自らが能動的にわが国の安全保障を全うするという国家として当たり前の姿勢を明確にした点にある。
 国家安全保障戦略においては、外交力・防衛力・経済力・技術力・情報力を含む総合的な国力を最大限に活用して国益を守るという姿勢が示されている。
 国家防衛戦略では、強力な軍事能力を持つ主体が他国に脅威を直接及ぼす意思をいつ持つに至るかを正確に予測することは困難であることを前提として、平和時に保持すべき防衛力という考え方から、相手の能力に着目した防衛力の抜本的な強化によって「抑止」を重視する考えが鮮明になっている。 
 更に、防衛力そのものと言える防衛産業基盤や防衛技術基盤の強化を抜本的に行うことを明示するとともに、長年課題として認識されてきたものの予算的な制約で放置されてきた燃料・弾薬や補給物品などを確保して「持続性・強靭性」を強化することを打ち出したことの意義は極めて大きい。

 このように画期的な内容を含む戦略3文書も、実践、実行して初めてその価値が発揮される。平和憲法を掲げ、平和を唱えるだけで平和を維持できないのと同じである。
 「絵に描いた餅」という言葉は、どんなに巧みに描いてあっても食べられないところから、何の役にも立たないものを意味する。
 また、そこから転じて計画などが実現できなくて無駄に終わることを「画餅に帰す」とも言う。戦略3文書に盛り込まれた内容は、決して役に立たないものでも、実現不可能な理想でもない。むしろ、わが国の安全保障上の長年に渡る課題を解決するための具体的かつ重要な取り組みが示されているのである。
 世界で最も複雑で厳しい安全保障環境に置かれている我が国において、戦略3文書を「画餅」にしてはならない。それを何が何でも実行するという国家としての覚悟が問われているのである。そして、国の覚悟を後押しできるのは、戦略3文書に対する国民一人一人の関心であり、厳しい眼差しである。
 戦略3文書がどのように実践され、成果をあげているのか、常に見守り続けることが国民の責務でもある。

思えば遠くに来たものだ-偶然と出会いに導かれた自衛官生活-(令和4年11月:荒木淳一)

 この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」晩秋号(第128号)に寄稿したものを許可を得て転載しています。


1 はじめに

 航空自衛官としての勤務を終え、既に4年が経とうとしている。振り返る「ラッキー」というタック・ネーム(操縦者のコールサイン)そのままの自衛官生活であったと感じる。と同時に、様々な節目で自分を導いてくれたり、背中を押してくれたりした上司、先輩等の人との出会いに恵まれていたことを実感する。
 自分を鍛え、育ててくれた航空自衛隊に深く感謝しており、何らかの恩返しをしたいと思い、OB団体の活動や情報発信等等を行っている。今回、「翼」誌に寄稿する機会を頂いたことから、現役の方々の何らかの参考になればと思い、自らの経験を通じて学んだこと、考えたこと等の一部を紹介させて頂きたい。

 

2 「瓢箪から駒」でパイロットの道へ;スキル・トレーニングの始まり

 防大卒業後、パイロットの道を歩むことになったが、正に「瓢箪から駒」であった。防大1年時の身体適性検査が「不適」であったものの、運よく航空要員となり、奈良の幹部候補生学校に進んだ。何故かもう一度、身体適性検査が実施され、T-3初等練習機に同乗して行う飛行適性検査(APT)を受けることになった。飛行機に乗れることだけで満足であったが、卒業時に「飛行操縦学生」を命じられて更に驚いた。
 飛行適性検査で上位だった数名がパイロット以外の職を希望したため、繰り上がって合格枠内に滑り込んだらしい。飛行適性が基準以下であったわけなので、約2年半のフライトコースで課程「免」になる可能性が最も高い学生であった。結婚を約束して付き合っていた家内に2年半待ってくれと言った手前、決して首になるわけにはいかず、強い覚悟を持って操縦課程に進んだ。その際、防大で学んだ生活術と校友会活動(テニス)を通じて自分なりに工夫したイメージ・トレーニングが大いに役に立った。
 防大生活の分刻みのスケジュールと細かい決まり事を卒なくこなし、上級生から叱られないために、常に次に何をするのか、何をしたら駄目なのかを、前もって考える癖が付いた。元々要領の良くない自分なりに身に付けた生き延びるための術である。校友会活動(テニス)では、生来のあがり症を克服するため、当時、それほど一般的ではなかったイメージ・トレーニングを自分なりに工夫して練習に臨んだ。常に試合の競った場面、精神的に追い込まれた状況等を想像しながら、心を落ち着かせ最高のパフォーマンスを出す為にどうすべきかを考えて練習に取り組んだ。この生活術とイメージ・トレーニングがその後のフライト訓練に思いがけず役に立った。

 「パイロットの6分頭」と言われる。飛行機を操縦しながら様々な判断や操作を行う際、地上の6割程度しか頭が働かないという空中での思考特性を表した言葉だ。真理ではあるが、ほとんど飛行経験のない学生の場合、1割も働かないのが実態だ。初めてE/Gを始動させた時、音と振動で頭が真っ白になり、その後の手順が出てこなくなるのが普通の反応である。
 そういう事を一つ一つ克服していかなければ航空機を飛ばすこと等到底できない。手順を覚えるだけでなく、どんな精神状態でも、手が動く、目が計器に行く、無意識に操縦桿を動かせるレベルまで判断や操作に習熟し、自らのスキルとして身に付けることが求められる。上空で止まって考えることは出来ないので、常に先を考えながら、飛行機の速度に遅れることなく判断・操作が求められる。飛行訓練はいわば究極のスキル・トレーニングである。 
 地上で「知っていること」が上空で「出来ること」を意味しない世界である。習得した知識を無意識に体で体現できるレベルのスキルに昇華させなければならない。その為には事前の周到な準備とイメージフライトの繰り返し、段階的な訓練と評価の積み上げが不可欠である。離陸・着陸だけでなく、編隊飛行、計器飛行、空中操作から対戦闘機戦闘、要撃戦闘、射爆撃等々、など、求められるスキルは数限りない。機種が変わると同じスキルでも一からの積み上げが必要となる。操縦者が一人前になるのに8年以上必要な所以である。
 しかし、飛行教育課程そのものは、過去の実績を踏まえ実によく設計されている。段階的に訓練課目と達成基準が設定されており、適切な時間が配分されている。学生の性格や資質に応じた教官の指導もあり、初めて空を飛んだ学生が約2年半で戦闘機を操縦できるレベルに到達できる。先行的に物を考えること、事前準備に万全を期すこと、イメージフライトと実践を繰り返すことで、知識をスキルに昇華させることが鍵である。この体験がこの後の自衛官生活の様々な場面で役に立った。

 

3 「英語が嫌い」が米空軍士官学校交換幹部へ:スキルトレーニングの初実践

 初任地の飛行隊長との出会いが次の「瓢箪から駒」となった。「英語が嫌い」と公言してはばからなかった私に対して、「今から日米共同の時代だ」と拳骨を食らわし、英語に関するあらゆる仕事を私にアサインし、鍛えていただいた。
 最初は嫌でたまらなかったが、目の前にぶら下げられた人参(米国への研修、出張等)につられて、仕事を続けるうちに、幹部申告に何の予備知識もないまま「米国での勤務を希望」と書くまでになった。その後、飛行教育部隊に異動した後、米空軍士官学校の交換幹部として赴任することになったが、その経緯も「瓢箪から駒」であった。年度末のある日、飛行訓練の合間に飛行隊長から呼ばれ、米空軍士官学校の交換幹部に行く気があれば今日中に返事しろと言われた。
 三番目の長男の出産してまだ三か月しか経っていない家内を公衆電話から何とか説得し、返事をしてから四か月後にはコロラドスプリングスで新任教官課程を受講していた。後から聞いた話では、第一候補者が何らかの事情で行けなくなり、慌てて人選した補任担当者が私の幹部申告に目を止めたらしい。腹の座った家内と補任担当者には感謝しかない。
 交換幹部の勤務では、軍事学(MAS:Military Art & Science)を、米空軍の士官候補生に英語で教えるというものであった。50分の授業を42回/学期(1回/2日のペース)、二学期/年を行うものであった。孫氏やクラウゼビッツといった戦略家の思想に始まり、航空戦力の理論や思想、統合作戦等を三学年に分けて教育するシラバスであった。「英語が嫌い」から脱却していたものの、50分間英語で教育することは苦痛であった。
 しかし、フライトコースで身に付けたスキル・トレーニングの要領を実践し、何とか乗り切ることができた。まず50分の口述原稿を作り、それを丸暗記し、原稿を見なくてもしゃべれるよう何回も歩きながら練習をした。たかが50分の授業とは言え、レッスン・プラン、学生のリーディング・アサインメント、教官用の参考資料を読み込んで、口述原稿を作り、憶えることは大変であった。授業が終わった瞬間から次の授業の口述原稿作り、暗記、口述の練習という2日サイクルを学期が終了するまで延々と繰り返す自転車操業が続いた。幸いなことに夏休み等の休みが比較的長期間あり、その半分を次の学期の準備、残り半分を米国内の観光地を巡る家族旅行に当てた。
 在任中、毎学期シラバスが見直され、前の学期で作った口述原稿の半分以上が使い物にならず、作り直しを余儀なくされ続けた。今振り返っても、嵐の様な2年半であったが、フライトコースを通じて身に付けたスキル・トレーニングの要領で何とか乗り切ることが出来た。士官学校唯一の航空自衛官として、日本、航空自衛隊を代表する立場であり、自分の能力不足を言い訳を出来ない環境であったことも幸いした。日々足掻きながら家の事を顧みない父親を暖かく励ましてくれた妻と子供達には感謝しかない。

 

4 空幕勤務と数々の出会い:スキルの到達目標たる後ろ姿

 帰国後、約1年半の飛行隊勤務を経て、空幕勤務となった。同じ班で勤務した先輩との出会いが更なる「瓢箪から駒」となった。志の高い先輩は自らCS履修中に夜間の大学院で修士課程に挑戦するとともに、駐在武官を目指して語学学校に通っていることをサラリと当然のことのように話してくれた。
 流石に同じことはできないものの、少し背伸びしてCS履修中に米国大学院に留学する戦略修士課程を目指すことにした。当初、候補者リストにも載っていないと聞き、諦めようとしていたが、その先輩から「合格証を持ってきたら何とかなる」と言われ、休日に米国大学院を目指す予備校に通うことにした。結果的に米大学院への留学が叶い、CS卒業後2年間、米国で安全保障に関する修士課程を履修することが出来た。
 安全保障に関する日本の常識が世界の非常識であることを実感するとともに、防衛・安全保障の専門家としての自らの研鑽が不足することを痛感した。その後、空幕勤務と部隊勤務を繰り返しながら、数多くの上司、先輩等と勤務する中で、目指すべき指揮官像や目標となる上司、先輩等の後姿を目の当たりに出来たことは、その後の自衛官人生に大いに参考となった。
 次の補職を聞いて躊躇していた時、ある先輩から「自分が出来ることをやり切ってダメだったら、それはお前を選んだ組織が悪い。そう言えるくらい自分なりにやってみろ」と背中を押してもらって吹っ切れた。やる前に出来るかどうかを悩むより、自分で出来ることをやるか、やらないかの違いだと思った。勿論、自分なりにやったからといって、最低限のレベルに到達できないことや失敗も数多くあったが、かえって自分にどのスキルが足りないか、何が不得手かを把握する機会となった。時には自分の能力の低さに落ち込みつつも、身近な先輩等を目標に、どうすれば足りない能力を伸ばせるかを考え、様々な本から知識を吸収し、自分なりのやり方で試行錯誤することを続けた。

 

5 初めての指揮官職は基地司令兼航空団司令;スキル・トレーニングの応用

 班長や課長など幕僚職を務めたが、実際に部下を持つ部隊指揮官になったのは航空団司令兼ねて基地司令を拝命したのが初めてであった。若いころからリーダーシップとか指揮・統率に人一倍不安を感じていたが、補職された以上、そんな不安は一切口に出せないし、芯の無い指揮官に付いてくる部下はいない。階級と職責に相応しい立ち居振る舞いや、判断・決心、部隊指揮が出来るかどうかではなく、やるしかなかった。
 部外者との交流、各種行事への参加、挨拶・訓示、講演等、部隊指揮に関するスキルだけでなく足りないスキルばかりであったが、結局、自らスキル・トレーニングをするしかなかった。あるべき姿や目標を設定し、必要な知識を詰め込み、自分なりのやり方で実践してみる。その上で理想とする先輩や上司の後姿と重ねながら自己分析・自己評価を行う。その繰り返しを続けると、何が上手くいって、何が足りないかが見えてくると同時に自分なりのやり方が身に付いてくる。
 不思議なもので、あるべき姿を演じているだけでも、それがいつの間にか当たり前に感じるようになる。セルフ・スキル・トレーニングは理屈的には簡単であるが、実践は難しい。適切な目標を自ら設定し、自分のパフォーマンスを客観的に評価しなければならないからである。また、途中で妥協も諦めもせず、やり続ける覚悟が必要だからである。

 

6 おわりに

 36年間の自衛官生活を何とか全うできたのは偶然と人との出会いに恵まれたからであったとつくづく思う。「瓢箪から駒」で足を踏み入れた操縦者として身に付けたスキル・トレーニングを応用しながら何とか最低限のレベルで職を全うできたのかもしれない。
 若い頃、「課程免にならない」、「失敗しない」といったネガティブな目標ではなく、国防という崇高な使命と自らの職のあるべき姿を念頭に取り組んでいれば、もっと人間力を磨くことが出来たかもしれないとの反省もある。
 今後も防衛・安全保障の専門家OBとして、間接的ではあっても国防や安全保障に関わることを通じて、自らの人間力の向上やスキルを磨いていきたいと思う。そのプロセスは一生続くものであり、自らを更に成長させるための修養の場であると信じている。

 

教官操縦士(T-2)を終えて渡米へ
士官学校でつばさ会ご一行にチャペルを案内
士官学校授業風景
大学院卒業

「防衛大学校アメリカンフットボール部の飛躍を一緒に楽しみませんか!」(令和4年11月 福江広明)

 この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」晩秋号(第128号)に寄稿したものを許可を得て転載しています。 

 

1 防大アメフト部の歩みと、より高みを目指して

 防衛省の機関として防衛大学校が1953年に開設。同時にスポーツと文化の両分野で多くのクラブが発足し、校友会を形成していきました。

 防衛大学校アメリカンフットボール部(以下、「Cadets」(英語で士官候補生))の創部時期には諸説あります。1期生が発起した、同好の志が集うタッチ・フットボールを経て、関東アメリカンフットボール学生連盟(以下、関東学生連盟)に加盟し、校外活動を開始した1957年とするのが最も適当とされています。

 
 さて、Cadetsは創部の年に関東学生リーグに8番目の大学として加入します。当時の最上級生は防大2期生で、その戦績は2勝(早稲田、学習院)5敗(慶応、明治、立教、法政、日大)のリーグ6位という結果でした。

 その後、加盟大学の増加に伴い、1959年からは1・2部制に、1970年から1980年までの間はリーグ制になり、1981年以降に再び1・2・3部制に移行しています。

 こうした中、Cadetsは2001年以降、1部リーグ入りが遠ざかっている状況です。最近の10年間は、2部に7か年、3部に3か年という在籍結果です。

 
 しかし、一昨年当面の目標であった2部昇格を果たしました。これは監督、スタッフ・コーチ、選手が一丸となって戦力強化に努めてきた成果です。特に、他大学出身の部外コーチ陣(現在、5名)による尽力が大きな要因の一つでした。この年のオフ・シーズンには、さらなる上位進出を果たすべきとの機運がOBを含む関係者の中で高まっていきました。

 この雰囲気を単なる期待感に終わらせないために、戦略的な観点からCadetsの運営全般に関する基本的な方針を掲げ、それに基づいて各種課題を解決に導く具体的な施策等を示す活動がOB有志を主体に始まっていきました。

 

2 戦力アップのための10年構想

 昨年春、新監督の要望等により、創部以来初めてとなるCadets及びOB会の戦略ビジョン等を定めた「防衛大学校アメリカンフットボール部の運営等にかかる長期的戦略指針」(以下、戦略指針)案をOB会有志で作成、4回の説明検討会を経て今年3月のOB総会において議決するに至りました。

 戦略指針は、Cadets及びOB会による10年先の将来を見通す長期的な活動及び全般運営上の方向性を示すものです。作成にあたっては、Cadetsの戦力向上にかかる心技体の総合的な検討を行い、最高峰の1部リーグ定着と最高位獲得を実現するための長期的な戦略の構築を目指しました。

 
 戦略指針の特徴は、次の5つです。

①Cadets戦力の充実及びその最大発揮を目的として、中長期的な観点から将来のCadets運営環境を分析評価する。 

②防衛大学校の創設目的に照らすとともに、関係する省庁、機関、団体が有する理念及び行動指針等を作成上の基礎とする。 

③Cadets創部以来、初めてとなるビジョン(基本理念、将来像、Cadetsに求める能力等)を戦略指針の中核として作成する。 

④ビジョンに基づき、Cadets活動上の運営戦略及びOB会の活動方針・長期計画等の骨子を明らかにする。 

⑤前項の運営戦略、方針及び計画等を推進するにあたって、予測される各種課題を明確にするとともに、それぞれの対応の方向性を示す。

 
 戦略ビジョンを具現化するためには、「指導体制の充実」と「活動経費の増加」が最重要事項であることがわかりました。また、この相乗効果によって、1部常連チームになる可能性があるとの評価も得ました。戦績が向上することに伴って、選手層の厚さが期待できる上に校友会活動全体を牽引する存在にもなれると期待できます。
 Cadetsがこうした一部進出の道をたどるには、特に寄付受けを含む安定的な活動経費の確保が最も肝心です。そのためには、OB会のさらなる活発化並びに家族会、後援会と一体となる組織構築が不可欠であることも分かってきたのです。 

 

 チーム理念と将来像

 戦略指針の作成上、まず取り組んだのが、「チーム理念」、「将来像」、「チームに求める能力」等を明らかにすることです。監督、スタッフ・コーチ、選手のみならずOB会を含めたすべての関係者が、戦略ビジョンを共有して、その実現に向けて努力を傾注できるよう配慮しました。 
 

 このうち、「チーム理念」は、Cadetsの将来像を明らかにする上で、中心となる考え方です。チームが未来にわたり存続、活躍するとともに、ビジョンを具現化するための根本となる価値観であり、不可欠かつ不変なものと定義づけしています。 

 「チーム理念」を創り上げるにあたっては、国内外の関係組織(国の機関、大学、企業等)の理念を調査しました。この結果を参考にしつつ、昭和時代(創部期)から受け継がれてきた「部訓」と、平成時代のチーム信条であった「横須賀フットボール」を融合させ、「チーム理念」を次の3項目として掲げています。 

(1)リーダーシップの強化  

(2)勝利の追求 

(3)規律下の闘志と団結心の保持 

 ちなみに、「部訓」は、『闘志なき者は去れ 而して山を降りよ』です。創部から間もない昭和30年代半ばに当時の監督及び選手によって創作されたといわれます。「横須賀Football」は、平成20年代半ばの監督及びヘッドコーチを中心にチームの戦い方と共に、選手等の行動規範となる『チームの一員、個人の取組み、防大生』をTeam Philosophyとして定められたものです。

 
 次に、「将来像」です。チーム内外における諸環境の変化を見据えて、チームとしての戦力構築を図るため、中長期的観点からあるべき姿を分析、検討しました。これを踏まえ、チーム理念を中核とするビジョンを明らかにして、これまで培ってきた人的、資金的、技術的基盤をいっそう拡充しようという主旨です。他校の巧みな戦術用法にも対処し得る均整のとれた戦力及びその発揮のための支援体制を整備するとともに、健全、適切な全体運営を行わなければならないという意思を強く打ち出すことにしました。この考え方に基づき、戦略指針が対象とする期間における「将来像」を、以下の4項目に総括しました。
  

①Cadetsは、充実した指導体制の確立、並びにチーム戦力の最大発揮に要する活動資金の安定的確保の下、チーム戦力を常に高いレベルに維持する。これにより、最上位リーグでの定着化を図る中にあって最高位を獲得する。 

②Cadetsは、監督・スタッフ及び選手の双方が主体となって、精強なチーム体制を構築する。その上で、計画的な教育訓練の実施及び練習環境の整備により、ポジションに応じた適性ある選手を養成する。 

③Cadetsは、OB会の全面的支援を得つつ、毎年度掲げる目標の達成を目指す。この際、OB会のうち、現役自衛官の職にあるOBについては監督、スタッフ・コーチ等の人材管理を主に行うとともに、退職したOBは資金拡充に注力する。  

④Cadetsは、OB会と密接に連携しつつ、戦力発揮にあたって運営戦略の見直しを継続して行うとともに、戦術面においても他校に対する優位性を確保するための各種方策を打ち出すことによってチーム能力のさらなる強化を追求する。  


 さらに、「将来像」を具現化するために、特にチームに求める主な能力を、以下のように定めました。 

■個人基礎技術力 

 基礎技術力は、あらゆるポジションの選手が試合・練習において終始使う能力。これまでの実績及び防大の特性から、スピード(速力・瞬発力)、スタミナ(持久力)及びコンタクト(接触力)を特に重視する。 

■コーチング力 

 選手はほぼ未経験者集団であり、各選手要員を一人前に育成するには優れたコーチング力が不可欠。今後とも、校外から人材確保がチームの戦力向上に大きな影響力を持つため、積極的に関係施策に取り組む。

■ポジションに応じた応用技術力 

 応用技術力については、戦術プレーの質及び多様性を高め、試合に勝利するために必須。個人基礎技術力を修得した上で、それぞれのポジションを担うにふさわしい技術を身につけ、他チームの同一ポジション選手を凌ぐ技量を求める。

■情報収集・分析力 

 対戦相手のプレースタイル、個人の能力、得意プレー、弱点等を分析するスカウティングの観点から、情報収集に基づく各種のデータ化を図る。また、自らのチーム選手個人のプレー能力を評価し、チーム・プレーに反映する。 

■組織戦を担うチーム力 

  チーム力に関しては、フィールド内の選手に限らず控えの選手、指導する監督、スタッフ・コーチ、前項で示したデータ管理スタッフ、専門医学知識を有するドクター、栄養アドバイザーといった様々な要員を可能な限り充員する。 

 

4 Cadetsの運営戦略

 戦略ビジョンを受け、チーム及びOB会の合同運営戦略を、「理念の浸透」「人材の充実」「環境の拡充」の3つの基本方針にとりまとめました。各方針の記述にあたっては、次なる段階で具体的な施策を案出し得るよう配意していきました。各方針の概要は次のとおりです。 

(1)「理念の浸透」 

  ア チーム理念の共有及び浸透 

    Cadetsの運営等に関わる全員がチーム理念を平素から共有します。また、先述のビジョンを早期に実現するために、チーム理念の浸透及び定着を図った上で、Cadets及びOB会のさらなる発展につなげていきます。 

  イ Cadetsの歴史・伝統の理解及び継承 

    Cadetsの歴史及び古豪に相応しい伝統を深く理解することにより、チーム愛を高めていきます。また、これまで培ってきた知識及び経験を継承することにより、Cadets及びOBの間に一体感を生み出します。

  ウ 情報発信の強化 

    チーム力の向上及び戦力強化にあたっては、部内外に多くの支持者を得ることが必須です。チームが勝利を目指す姿に触れ、共感を呼び込むために、積極的SNSを最大活用することにより、関連情報を広範囲に発信していきます。 

(2)「人材の充実」  

  ア 有能な部員獲得のためのリクルート活動の強化 

    運動能力の高い選手を一人でも多くリクルートする要領を定め、選手要員の規模拡充を図ります。併せて、新入部員の募集においては、後述する③項のスタッフ要員の勧誘にも努めます。 

  イ スタッフ・コーチの安定的な確保 

    引き続き、高い技術指導力を待つ部外コーチをポジション別に確保するよう処遇の枠組みを定めます。また、防大出身又はフットボール経験のある現役自衛官の指導官等を確保します。 

  ウ 学生スタッフ要員の定員化 

    選手要員とは別に、入部当初から選手を多方面で支援するスタッフ要員を定員化します。特に、情報収集、彼我の戦力分析及び評価、選手の身体管理、監督・スタッフの補佐を務める学生を一定数確保して戦力強化に努めます。

(3)「環境の拡充」 

  ア OB会をはじめとする支援団体の拡充及び活用強化 

    選手等の活動意欲を高揚することを念頭に、OB会の充実、「家族会」及び一般の会員で構成する「後援会」の設立を企画します。その上で寄付受け等により、資金確保の活動を展開します。 

  イ 練習器材等の充実整備をはじめとする後方支援態勢の強化 

    前項の活動資金の獲得を前提に、個人のウエイト・トレーニングをはじめチーム内の連携練習等に関する器材等を戦力強化の観点から計画的、先行的に購入します。

  ウ 専用グランド等の確保 

    他大学と同様に、防大グランドの人工芝化を促進し、天候に左右されない練習環境を整備する。充分な練習量を確保する上でも専有化するとともに、連盟から試合場として認可が得られる付帯施設を整備していきます。


5 OB
会が目指す戦力基盤の充実

 従来からOB会則に規定していました「防大アメフト部の活動を支援し、その発展に寄与」というOB会の目的を達成するため、先述の運営戦略に照らして、あらためて同会の活動方針を明らかにすることにしました。 

 
 その重視事項は、以下のとおりです。 

(1)OB会の組織力発揮のための連絡体制、協力体制及び管理体制の強化 

(2)理念の共有、事業推進への理解を得るための情報発信(部内外広報) 

(3)世代を考慮したOB会活動における役割分担 

(4)チームに対する支援金増額のための取り組み 

 また各方針のもと、具体的な施策・事業を達成目標と共に示すことにしました。その一例として、前項の運営戦略のうち、「環境の整備」の「OB会をはじめとする支援団体の拡充及び活用強化」の主な事項を記述してみますと、次のとおりになります。 

①OB会

幅広い施策への参画を目標に、各期代表者を通じた情報共有系統を確立するとともに、各種事業の計画的推進のほか、未活動者の積極的参加を促します。また、事務局機能の充実を図り、OB会費の納入向上及び一般会員からの会費・寄付金の収益を得ることを目指します。

②家族会​

家族会の設立を目標に、選手等の家族への情報提供系統を確立し、試合・練習への家族招致等に関する活動の活性化を図ります。​

③後援会​

後援会の設立を目標に、部外への情報発信を強化に努めることにより、一般応援者の参入及び組織化を目指します。​

6 ビジョンの実現に向けて

 この度の戦略指針の作成は、昨春のCadets監督の交代を機に発意しました。これまでCadetsが歩んできた歴史を振り返り、諸先輩が築き上げた実績を評価しつつ、将来のCadets及びOB会のあるべき姿を戦略的観点から分析すべきとの新監督の提言を受け、OB会が主体となって作成に当たりました。このこと自体は、数年後に創部70周年を迎えるにあたって、大きな節目におけるOB会としての業績の一つにもなり得るとの判断がありました。 


 対象期間として、これから先10年を見通していますが、「Well begun, half done」の格言にもあるように、ビジョンの早期具現化に初年度から全力を傾注していきます。 そのためには、Cadets及びOB会にかかる全ての関係者があまねく基本理念の共有を図り、一致団結した諸活動を行うことがとても重要になります。 

 運営戦略及びその具体的な活動の中で、家族会及び後援会を計画的に設立して、さらなる組織的な戦力拡充のための体制整備に尽力することを掲げました。この最終的な段階では、「チーム強化育成委員会(仮称)」なる枠組みを構築して、真に物心両面からのCadets活動支援に努めることを目指しています。


 ぜひ今後の活躍に期待していただくと同時に、こうした活動に多く方に参加していただけることを心から願っています。

防衛大学校アメリカンフットボール部の年間を通じての活動状況、試合スケジュール及びその結果等については、以下でご覧いただけます。

■ホームページ

①防衛大学校アメリカンフットボール部の URL:http://www.nda.ac.jp/ed/cadets/

②Cadets を応援するHP(OB会HP)の URL:https://www.cadets1957.com/

この「翼」誌を愛読いただいている方々には、年間スケジュールで示される試合会場に足を運んでいただき、私達と一緒に観戦を楽しんでみませんか。先述のホームページの問い合わせ先等をご利用いただき、事前に依頼していただけるとOB会員が案内及び試合ルールの説明をさせていただくことも可能です。

 格闘、頭脳、戦術等、様々な要素が凝縮された究極のスポーツを堪能していただき、将来の我が国の安全保障を担う選手達を応援していただくことを切望します。 

 

ボストンだより(番外編:令和4年7月10日号)

 この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより 番外編」をもって再掲載を終了します。

 

 光陰矢の如し。ボストンだより最終回を寄稿してから早くも1年が経ちました。この間、オミクロン株に変異してさらに猛威を振るったコロナ禍が漸く収束したかと思えば、第二次大戦を彷彿させる侵略戦争がウクライナで生起し、今も激戦が続いています。現実は想像を超えて世界中に災禍をもたらしていますが、その苦難はかなり不公平なものです。
 6月初旬、観光客でにぎわうハワイで開催された日米韓のトラック1.5戦略対話に参加する機会を得て、その思いを強くしました。本稿では、この不公平かつ危険な世界の中で、日本がこれからも戦争の災禍を逃れ、平和と繁栄を享受していくには何が必要か、考えてみたいと思います。

 

 戦略対話の歓迎夕食会でスピーチした米インド太平洋軍司令官アクィリーノ海軍大将は、「現在の戦略環境は第二次大戦以降で最悪だ」と警告しました。
 中ロの「無制限の協力」は、第二次大戦の惨禍を経て構築された世界秩序に対する明白な挑戦だと指摘し、法の支配や自由、民主主義といった価値観を共有する国々が、協力してその挑戦に立ち向かわなければならないと主張しました。ウクライナ戦争はその試金石ですが、ロシアと中国では経済規模や国力で大きな差があり、中国を相手にした戦略的競争は、ウクライナ以上に厳しいものになると覚悟する必要があります。
 中ロに限らず、米国の一極構造を快く思っていない非民主国は意外に多いのが実態です。中国の一帯一路や貿易経済に依存する国、またロシアから軍事援助を受けるアフリカ諸国は、国連総会のロシア非難決議に賛成していません。
 これからの世界は、欧米を主体とする現状維持国と中ロを中心とする現状変更国、そしてその間で揺れる国々の3つのグループに分かれ、協力と競争、場合によっては対立や対決という複雑に絡み合った関係が常態となると思います。日本は現状維持グループの主要国として役割と責任を果たすと同時に、他の2つのグループ国とも共存できる関係を維持することが必要です。

 

 現状維持国と現状変更国の競争・対立は、歴史や文化等の違いを背景に、外交・情報・軍事・経済のいわゆるDIMEの全ての分野に及びます。日本の繁栄には、卓越した技術力によってDIME全体の国力を増強することが必要ですが、日本の生存には侵略や侵害を跳ね返す軍事力が不可欠です。
 ウクライナは、究極的に国を守るのは政治指導力と軍事力、そしてそれを支える国民の意思だということを実証しています。この3つの条件のいずれにおいても、日本は戦後75年に渡って厳しい現実から目を逸らせてきました。今こそ日本が直面する北朝鮮の核ミサイルや中国の巨大な軍事力などの脅威を直視し、文字通り「抜本的」な方針転換を遂げなければ、ウクライナ以上の惨禍に、為す術無く見舞われる恐れが強いと言わざるを得ません。

 

 岸田総理は、「反撃力」の保有や防衛費の大幅増額を掲げ、年末までに国家安全保障戦略等の見直しを明言していますが、憲法の精神のもと「専守防衛」を遵守するという姿勢は変えていません。「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持」することが幻想であることは、「人類普遍の原理」に背く独裁国家ロシアの侵略を見れば明らかです。 
 日本の総理大臣は、ロシアのゼレンスキー大統領のように、国家存亡の危機に際して、国防の先頭に毅然と立つ覚悟はあるのでしょうか?昨年の自民党総裁選挙を思い返すと、その覚悟と信念を持つ政治家は思いのほか少ないのではと危惧します。
 維新の会に強い影響力を持つ橋下徹氏は、「一般市民は戦闘が始まりそうならまず避難。災害対策と同じです。戦うことだけに熱くなってはいけません。とにかく一刻でも早く一般市民が逃げる仕組みをとることです。逃げるのはダメ、戦わなければならないという雰囲気になることは絶対にダメです」と発信していますが、市民は逃げられても国は逃げられません。「戦うよりも降伏を」と主張するのであれば、降伏した結果がどうなるかを合わせて説明する必要があります。
 ウクライナでのロシア軍による無辜の市民の虐殺や略奪、ソ連による大飢饉や粛清の歴史、また中国共産党のチベットやウイグルに対する弾圧を見れば、降伏した日本国民に苛烈な運命が待つことは明らかでしょう。

 

 同盟国アメリカにとって、橋本氏のような発言は、日本を「見捨てる」格好の口実になります。日本が危機に曝されているのに、日本人自身が戦う意思を持たずして、アメリカ人が日本のために血を流すはずがありません。トランプ大統領だけでなく、バイデン大統領も昨年のアフガニスタン撤退に際し、これを明言しています。
 さらに、仮に日本が無抵抗で中国に降伏した場合、中国の意に服す日本は米国の敵とみなされます。日米安保条約が破棄され米軍が撤退する時、中国に自由に使われるであろう自衛隊や在日米軍の基地、防衛産業インフラをそのままに残しておくでしょうか?第二次大戦で、ドイツに早々と降伏したフランスの艦隊を英国が撃滅したメルセルケビール海戦を想起すべきです。
 国の命運を左右する政治家は、国際政治の冷徹な原理を弁え、国防に対する固い信念を持たなければなりません。私達国民は、そのような目で政治家を選択することが重要です。目前の参議院選挙はその選択の貴重な機会です。

 

 国民も変わらなければなりません。1981年から実施されている世界価値観調査の結果(2021.1.29)によれば、「もう二度と戦争はあってほしくないというのがわれわれすべての願いですが、もし仮にそういう事態になったら、あなたは進んでわが国のために戦いますか」という設問に対し、「はい」の比率が日本は13.2%と、世界79カ国中、ダントツの最低でした(2位はリトアニアの32.8%、ウクライナは27位の56.9%)。
 敗戦の歴史や憲法の影響、日教組等による偏向教育など理由は複合的ですが、橋本氏のような言論界の誘導力も大きいと思います。ウクライナ戦争を前に、世界の国防に関する世論や姿勢は大きく変わりました。日本と同じ敗戦国のドイツは国防費を直ちにGDP比2%に増額し、ウクライナへの武器支援を強化、またスウェーデンとフィンランドは長年の中立政策を転換しNATO加盟を申請しました。
 同じ調査が今実施されたら、諸外国の「はい」の比率は大きく増えると思いますが、日本はどうでしょうか?「国を守るため自衛隊と共に戦う」という国民を一人でも増やしていくことは、本紙読者の皆さまに期待される役割です。

 

 3つ目の条件である軍事力はいかにあるべきでしょうか?現役の皆様はウクライナ戦争の教訓を日本の防衛にどう活かすか、懸命に思案していると思います。革新的な技術の早期導入や新領域への対応、「反撃力」の保有など、考えなければならないことは山積みですが、その際の姿勢として2点だけ要望します。
 まず、課題へのアプローチの順序を間違えないことです。例えば、北朝鮮のミサイル脅威への対処という課題に対し、「反撃力」の保有を考えなければなりません。その際、能力的に可能かどうか(可能にするには何が必要か)を最初に考えるべきで、政治的に可能かどうか(専守防衛の枠に入るか)はその次、法律的に可能かどうか(要すれば法改正)は最後という順序を、意識して守ることです。
 従来の防衛力整備は、ともすれば既存の法律や政治的制約を前提に、その枠の中で何ができるかを考えてきました(自身の反省を込めて)。「防衛力の抜本的強化」のためには、将来いかに戦うかを前提に、必要とする能力・装備をまず徹底的に考え抜くことが必要です。
 2点目は、「5年以内にGDP比2%水準の防衛費達成」という目標を、具体的な能力構築・装備取得の計画でしっかりと裏付けることです。逆に言えば、目標の実現は、財務省や国民が納得する「血税の使い道」を防衛省が提示できるかどうか次第です。昨年までの予算要求とは全く違う発想が必要であり、空幕を始めとする担当者の皆様の柔軟な思考と大胆な判断を信じ、本年末の戦略文書や予算案に繋がることを期待しています。

ボストンだより(その8:令和3年7月10日号)

 この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより その8」がシリーズ最後になります。なお後日、番外編を掲載する予定です。

 皆様、ワクチン接種はお済みでしょうか?米国では2回目の接種を終えた人が42.5%を超え(6月10日現在)、マサチューセッツ州ではCOVID-19に関連する全ての規制が5月29日に解除され、6月15日に州の緊急事態が終結します。
 それでも全米の新規感染数は2万3千件を超え、死者は439人(6月9日)を数えていますが、米国社会は確実にコロナ後へと変貌しつつあります。公衆衛生が専門の浦島充佳東京慈恵会医大教授は、米国を「コロナ戦争の唯一の戦勝国」だと評しています(毎日新聞、5月13日)。
 その理由は、トランプ前大統領の初動対処の失敗もあり、60万人の犠牲者を出したものの、国防生産法に代表される「戦時体制」を適用した迅速なワクチン開発(Operation Warp Speed)で、米国は絶対的な優位を獲得したからです。皮肉なことに、死者が少なく優等生とされた台湾やベトナムではワクチン接種が進まず、苦労しています。
 日本はPCR検査、医療体制、ワクチン接種のいずれをとっても対応が後手に回り、「敗戦国」との評価は免れません。しかし、この戦いはまだまだ続きますし、COVID-19の次には別のウイルスとの闘いが必ず来ます。これを奇禍として敗戦の原因を徹底的に追求し、様々な危機がもたらす最悪の事態を想定した体制を整えなければなりません。その意味で、私たち国民全員が、日本という国の「戦時体制」のあり方を、今一度1945年の敗戦に遡って考える必要があるのではないでしょうか。

 

 米国で過ごした2年間、コロナ禍の非常事態の他にも、異例尽くしの大統領選挙と政権交代、国内分断の深刻化とそれを象徴する1月6日の議会襲撃事件、そして米中対立の先鋭化等、多くの事件や変化を経験しました。
 改めて思うのは、一つの事件や決定によって局面の変わる速さと大きさです。米国内はもとより世界中のあちこちで大きな変化が続々と起きていますが、変化に流されてしまうと、その速さと大きさに気づかないかもしれません。
 しかし、世界は今、私がアジアセンターに着任した2年前と比較すると、構造的と言っても過言ではないダイナミックな変化が起き、しかもいまだ止まることなく変化し続けています。
 米中関係は、直接戦争する可能性を秘めた対立、技術に代表される優位性をめぐる競争、そして気候変動等の共通課題に取組む協力という3つの側面が交錯し、これからの世界の潮流を一層複雑にするでしょう。
 日本は、この複雑な潮流を確りと読んで米中との関係を管理しなければ、国家の存立を危うくすると思います。その時に何より必要なことは、自らの運命を自ら切り開いていく自主自立の精神と自助努力です。

 

 米国がワクチン開発で戦勝国となれたのは、「戦時体制」による資源の集中投入だけが理由ではありません。2001年同時多発テロ直後に起きた「炭そ菌」テロを契機に、米政府は国家的なワクチン開発に取組み、mRNAを使った画期的な技術開発を進めてきました。国力以上の外交はできないとよく言われますが、国力以上の安全保障も不可能です。
 米国は、合衆国憲法に象徴される価値観及び国家・国民を守るため、一貫して国力の強化に努力しています。パンデミックに備えたワクチン開発はその一例です。ゲーム理論やシステム分析の開発で有名なRAND研究所は、第二次大戦後、独立間もない空軍が優れた科学技術者を確保し、長距離ミサイル等の新兵器を開発するために創設されました(Research and Developmentが名前の由来)。
 今もRANDは米国の軍事戦略を支える知的インフラとして存在感を示しています。マサチューセッツ工科大学(MIT)に付属するLincoln Laboratory(LL)は、米空軍から毎年11億ドル(約1,200憶円、防衛省全体の研究開発予算に相当)の資金を得て、4,000人の技術者・研究者が様々な装備や技術の研究開発に従事しています。
 AI、無人機、量子、サイバー、宇宙等の、これからの安全保障を左右する最先端技術の多くがここから生み出されています。RANDもMIT/LLも、米国の安全保障を支える基盤の一つに過ぎませんが、日本に、そして航空自衛隊に一番欠けているもののように思えます。

 

 ふり返ると空幕防衛班長当時、部長の指示で空自の課題を抽出し解決の方向を考察する「更なる飛翔」という作業に取組みました。幹部学校長の時には、航空研究センター設立に際し、「スマートパワーの源泉を目指す」という抱負を「翼」に寄稿しました。
 現役最後の補給本部長としては、補本創立60周年記念の「後方魂」の制定に関わりました。環境は常に変化しますが、その時々に不易流行を見極め、見えない将来を何とか見通して、変化に対応しようとする精神をこれらの空自勤務で鍛えてもらいました。そして、ボストンでの研究生活を経験した今、米国のような知的・技術的基盤を保持し、活用していくことの重要性を改めて実感しています。
 日本はコロナ敗戦を乗り越えて、次に来る危機に備えなければなりません。それが北朝鮮の核ミサイルなのか、中国の強大な軍事力によるものか、はたまた別の類のものなのかは予断できませんが、その時空自が必要とされることは間違いありません。
 その時にあるべき空自の姿を想像し、空自のMVV(Mission, Vision, Value)を再確認しておく必要があると思います。私も帰国後は、空自のMVVの明確化、ひいては知的基盤の強化に微力ながら寄与できればと考えています。

 

 このボストン便りは、本紙読者の皆様に米国の最新事情を私の目線でお知らせすべく、編集担当と相談して連載させて頂きました。
 旬な話題としてスポーツもよく取り上げましたが、5月14日にはFenway Parkのレッドソックス対エンジェルス戦を観戦し、大谷翔平選手のGreen Monster越えホームランを生で目撃できました。松山英樹選手のマスターズ優勝の快挙に続き、全米女子オープンでは、笹生優花選手が畑岡奈紗選手とのプレーオフを制するという夢の対決も実現しました。
 このプレーオフのテレビ中継(CNBC)は、最終日単独首位で出た米国のレキシートンプソン選手が75と崩れ3位に沈んだため、3ホール目の途中で突然終了し、全米の体操選手権に切り替わってしまいました。笹生選手を一貫してフィリピン出身と紹介していたことも印象的でした。
 米国スポーツ界での日本人選手の活躍は誇らしく、嬉しく思いますが、大相撲と同じで、アメリカ人から見るとまた別の感情が湧くことも理解できます。国際関係や安全保障についても、結局はナショナリズムや国民感情が大きく影響することを肝に銘じておくべきでしょう。

 

 この記事がお手元に届く頃には、東京五輪大会の開始が目前に迫っていると思います。コロナ禍での1年延期開催という空前絶後の大会が成功裏に実施されますことを祈念して、ボストンからの最後の便りとさせていただきます。拙稿にお付き合いいただき、ありがとうございました。

ボストンだより(その7:令和3年5月10日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。
 

 皆様、今年のゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか?本原稿を執筆中(4月10日)のボストンでは春の花が咲き始めましたが、やはり日本の桜を懐かしく思います。
 私事で恐縮ですが、3月末にファイザーのワクチンを接種しました。米国全体では少なくとも1回接種を受けた人が32%に超えており、バイデン大統領は、公約「就任100日間で1億回接種計画」を59日間で達成し、現在は100日以内で2億回の接種という新たな目標を掲げています。このペースでいけば、5月中には成人(希望者)の接種を終え、6月中にはいわゆる「集団免役の獲得」(人口の約70%以上がワクチン接種を完了)を達成できる見通しです。
 私も4月21日に2回目の接種を受ける予定で、6月の帰国時には免疫を得ている見込みです。その一方で、米国の新規感染者数は未だ毎日7万人前後、死者も千人近く出ています。累計感染数は3千万件を超え、死者も56万人超ですが、不思議に暗さはありません。超高速のワクチン接種に加え、1.9兆ドルの追加コロナ対策や8年間で2兆ドル(約220兆円)のインフラ投資の財政政策に、米国の危機対処の真骨頂を見る思いがします。ハーバード大学も新年度秋学期からは、対面授業と寄宿舎を全面的に再開する方向で検討中です。出口は明確に見えてきました。

 

 日本では聖火リレーが始まりましたが、コロナ対策も五輪開催もどこか中途半端な感じを受けるのは私だけでしょうか。感染者数や死者数は米国に比較すると遥かに少ないにもかかわらず、コロナ禍の「ダメージ」は日本の方が大きいような錯覚を覚えます。
 政策の説明要領やメディアの取りあげ方の影響も大きいと思いますが、米国と比べると、きっぱりと非常事態モードへの切り替えができない国と国民に根本的な原因があるように見えます。
 北朝鮮や中国の脅威を考えると、この危機管理ガバナンスの欠陥は、日本という国の生存に関わる問題です。折しも、バイデン政権初の外務防衛閣僚会談(2+2)で日米同盟の共通の課題が明示されました。
 共同声明では、台湾海峡の平和と安定の重要性も強調しましたが、「日米同盟の役割・任務・能力について協議することによって、安全保障政策を整合させ、全ての領域を横断する防衛協力を深化させ、そして、拡大抑止を強化するため緊密な連携を向上させる」ために、日本は何をしなければならないのか、真剣に考えなければなりません。年末には再度2+2を開催し、「宿題」の答えを出すことを約束していますので、猶予はありません。

 

 バイデン政権は国内政策も外交もスタートダッシュには成功していますが、真価が問われるのはこれからです。アラスカでの米中外務閣僚会談では米中の対決姿勢が鮮明になりましたが、バイデン政権が重視する人権外交は常に地政戦略との矛盾をはらみます。
 端的な例はフィリピンとの関係です。デュテルテ大統領の強権体質を問題視し、対中戦略上極めて重要な同盟国であるにも拘らず、関係修復には動いていません。中国はこれに乗じて、南沙諸島ウィットサン礁に200隻もの漁船を派遣し、建造物を造っています。
 九州大学の益尾准教授は、中国が北斗や衛星通信を利用して大・中型漁船を管理するシステムを構築し、漁船を使った海上ハイテクゲリラ戦を実践していると分析しています。バイデン政権がスカボロー礁と同じ失敗をしないか、危惧されます。また、米国の莫大な財政出動が将来の国防費に大きな制約となることは確実で、太平洋抑止イニシアティヴ(PDI)の実行性も疑問です。
 一方、中国の習近平主席は13回全人代第4回会議で次期5か年計画及び2035年までの長期目標綱要を決定し、長期政権の態勢を固めました。米中対立の狭間で、日本は何を基準にどう動くべきか、二面相と批判される韓国を反面教師として、しっかりとした方針を立て、体制を作る必要があります。

 

 新型コロナ禍は、これからの社会がどうなってしまうのかという、足元が崩れるような不安をもたらしています。その中で、競泳の池江璃花子選手が日本選手権100mバタフライと自由形で優勝し、東京五輪の切符を手にしました。白血病公表から2年余りの闘病を経た池江選手の快挙は海外でも大きく報道され、多くの人々に勇気や希望を与えました。
 「自分がすごくつらくて、しんどくても、努力は必ず報われるんだなと思った」という言葉には、万感の思いがこもっています。池江選手は、自分が持つ病気以前の日本記録は忘れて、復帰後の自己ベストを常に目指すと話しています。どうすればコロナ禍以前の社会に戻れるかと後ろを向くよりも、辛くてもしんどくても、コロナ禍の経験をばねにして新しい社会を目指すことが大切だ、と教えられた思いです(追記:松山選手マスターズ優勝の偉業!)。

 

 私のハーバード大学アジアセンターでの活動も残り2か月を切りました。コロナ禍の影響で昨年3月末から約半年、日本に一時帰国せざるを得なかったり、ボストンへ戻って以降も自宅からほとんど出られなかったりと、厳しい状況が続いています。
 逆境ではありますが、日米プログラムのオンラインセミナーに井筒空幕長をお招きし、ジョセフ・ナイ教授とのパネル討論を企画するお手伝いや、私自身もアジアソサエティ主催のパネルでAIの軍事利用についての講演をするなど、一つずつ実績を積み上げる努力をしています。
 一時帰国時には、兼原元国家安全保障局次長にお誘いいただき、岩田元陸幕長、武居元海幕長との座談会に参加、その記録が新潮社から出版されました。米国での残りの時間も確りと活用し、現役自衛官の皆さまや日本の安全保障を支えてくれる人たちのために、少しでもお役に立てるような成果をまとめたいと思います。最後になりましたが、2月19日に米国での飛行訓練中の事故で、不幸にも志半ばで亡くなられた植崎廉偲2等空尉のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

隊友会寄稿文「令和4年度防衛白書-関心と限界―」( 令和4年8月22日:荒木淳一)

これは、隊友誌に荒木淳一が今年8月に寄稿した記事を転載したものです。

 

1 令和4年度防衛白書に対する高い関心

 さる7月22日、令和4年度防衛白書が公表された。防衛白書刊行の目的は、防衛政策の基本理念について日本国民の理解を求めるためとされる。「できる限り多くの皆様に、出来る限り平易な形で、我が国防衛の現状とその課題及びその取り組みについて周知を図ること」と令和4年度白書にも刊行目的が明示されている。中央省庁が編集する印刷物で販売または頒布するもののうち、正式書名または通称に「白書」の名称を使用するものについては閣議了解が必要とされており、閣議後の公表が通例である。
 時代の推移と共に防衛白書の体裁や内容は充実してきており、令和4年度版にも国民の理解を得るために様々な工夫が凝らされている。写真と見出しで今の安全保障上の焦点を分かりやすく理解させる「4つのFOCUS」という記事で始まるダイジェスト版が白書本体とセットとなっている。紙面に収まり切れない細部の情報について検索先を示すURLや動画コンテンツのQRコードが白書の至る所に表示されている。防衛や安全保障専門家にとっても、政府刊行の信頼できる公式情報であるのみならず、情勢認識の変化や防衛政策の変更等を確認できる貴重な一次資料となっており、海外の研究者を含め防衛白書に対する関心は高い。

 更に令和4年度の白書は、専門家のみならず多くの国民も強い関心を寄せている。何故なら国際社会は戦後最大の危機を迎えており、我が国を取り巻く安全保障環境は歴史的な転換点にあるからだ。米中の戦略的競争が激化する中で、今年2月、ロシアがウクライナに軍事進攻し、連日、メディアで悲惨な戦争の実態を目の当たりにしている多くの国民が、安全保障や国防が決して他人事ではないという現実に気付き始めている。また、本年末には、国家安全保障戦略、防衛計画の大綱、中期防衛力整備計画の所謂「戦略3文書」の見直しが予定されており、それに関わる政策等が如何なる形で記載されているかは、メディアや筆者だけでなく大多数の国民も興味を持っている点である。
 しかし、結論から言えばこのような関心に対して十分に応えきれているとは言えない。背景には、閣議了解文書であることに起因する限界やその他の要因も考えられる。次に、今年度の白書の特徴と評価を述べると共にどの様な要因が期待、関心に応えきれていないかについて筆者の私見を述べたい。

 

2 令和4年度防衛白書の特徴と評価

(1)最大の特徴の第一は、ロシアのウクライナ侵攻を取り上げたことである。通常白書の対象期間は、前会計年度の一年間であり、昨年の4月から今年の3月までの1年間の安全保障環境や防衛省・自衛隊の取組みを記述している。2月に始まったロシアによるウクライナ侵略は依然として継続中であり、詳細な分析に基づく評価も固まっていないが、国民の関心が高くわが国の安全保障にも大きな影響を及ぼす事案であることから、5月下旬までの状況が記述されている。

 「第2章ロシアによるウクライナ侵略」として章立てし、「全般」、「侵略に至る経緯・契機・要因」、「ウクライナ侵略の経過と見通し」、「ウクライナ侵略が国際情勢に与える影響と各国の対応」の項目について12頁に渡り記述していることは評価できる。他方で、ウクライナ侵略は「武力の行使を禁ずる国際法等の深刻な違反であり、力による一方的な現状変更は国際秩序全体の根幹を揺るがすもの」、「多数の民間人の殺害は国際人道法違反、戦争犯罪であり断じて許されない」と強い口調で非難するものの、わが国の安全保障に如何なる影響があるのかについての記述は殆どない。事実関係を並べた後に、今後の影響や関連動向に「注目」、「強い関心を持って注視」との記述にやや他人事的な違和感を抱くのは筆者だけではないはずだ。

 今般のウクライナ侵略が我が国の安全保障に与える最も重要な示唆の一つは、核抑止の問題である。国連常任理事国でありNPT体制を支える責任を持つべき核大国ロシアが、非核国ウクライナに一方的に武力侵攻し現状を変更しようとしていることに加えて、米国・NATOに対して核の恫喝を行って軍事的介入を阻止していることである。キューバ危機以来、最も核兵器が使われる可能性が高まっているとの指摘もあり、限定的な核使用のリスクは現実的なものとなっている。核による抑止力が国家安全保障にとって死活的に重要であることが改めて示されたのである。
 中国、北朝鮮という核を保有する専制主義国家に囲まれる我が国の国家安全保障にとって重大な意味を持つ。米中間の戦略核のバランスが相互抑止の成立するパリティ状態に向かいつつある中で、中距離弾道ミサイル等の能力ギャップが存在している現下の状況においては、台湾を巡る米中間の衝突がエスカレートした場合、中国が核による恫喝によって米国の介入を阻止し得る可能性が十分に考えられる。米国による我が国に対する拡大抑止の信頼性、実効性を如何に高めるかがわが国安全保障上の喫緊の課題なのである。
 白書の記述では、「原発・核施設への攻撃とNBC兵器を巡る状況」として偽旗作戦の一部として核の問題が取り上げられ、「核抑止力運用部隊に特別な勤務態勢を取るように命令があった」こと等の事実関係のみを数行記載しているだけである。唯一の被爆国として非核三原則を掲げ、核戦略に関してほぼ思考停止してきた我が国にとって、核の問題に対する政治的センシティビティは高いものの、核問題に対する感度は極めて低いと言わざるを得ない。岸田総理が「現内閣では非核三原則見直し等の議論はしない」と明言したことに対する政治的配慮から、自民党提言では拡大抑止の課題について「しっかり議論する」ことになっている。白書の記述がそこまで配慮しているとは考えにくいが、改めて核問題に関する意識の低さと従来の政策の枠の中でしか議論できない限界が露呈する結果となっている。


(2)第二の特徴は、昨年度に続き中台関係に関する章を設けて台湾海峡の現状を記述している点である。令和3年度から、独立した節「米国と中国の関係など」として、「米国と中国との関係(全般)」、「インド太平洋における米中の軍事動向」、「台湾の軍事力と中台軍事バランス」など、台湾問題を多角的に記述しているが、令和4年度は更に踏み込んで、初めて中国の台湾侵攻のプロセスに言及している点は大いに評価できる。
 しかし、台湾側の分析のみを引用して記述されているのは残念である。安倍元首相が「台湾有事は日本有事」と喝破したように、わが国の安全保障に重大な影響を及ぼす台湾海峡危機について、当事者としての見方、考え方が示されないのは、中国に対する外交上の過剰な配慮にも見える。わが国の安全保障戦略、防衛戦略上、中国をどのように位置付けるかということは、「戦略3文書」見直しの大きな焦点の一つである。しかし、昨年度に引き続き4年度白書も、わが国を含む地域と国際社会の安全保障上の「強い懸念」にとどまっている。
 中国に関して、核を含む軍事力の圧倒的な増強、更には南シナ海における力による現状変更の事実、わが国に対する尖閣周辺での既成事実化の動き等を約30頁に渡り詳述していながら、何故、軍事的な脅威と位置付けられないのか、一般の国民には理解できないであろう。現行の国家安全保障戦略における中国の位置づけが、米国も失敗を認めた「関与政策」の延長上にあり、地域・グローバルな課題に「積極的、協調的役割を果たすことを期待」しつつも「懸念」として動向を注視する位置づけであることが理由の一つと考えられる。
 年末の「戦略3文書」見直しまではその位置づけの変更・先取りはできないという白書の限界でもある。脅威を特定せず力の空白を作らないという冷戦期の基盤的防衛力構想等の脱脅威論的思考から抜け出せず、脅威対抗的な考え方に馴染んでいないからに他ならない。安定的な日中関係を維持することは勿論、重要であるが、米中の戦略的競争の最前線に位置する日本が、既存の国際秩序を力によって自らの望むように変えることを公言し、実行している中国に対して、過剰な忖度をすることは防衛政策の方向性や資源投資の優先順位を見誤り、日本の将来を危機に晒すことにしか繋がらないことを認識すべきである。

 

3 おわりに

 国民の関心の高い「反撃能力」については、4月末の自民党政策提言において保有の必要性が提言されているものの、「戦略3文書」に盛り込まれるまでは、政治的な意志決定がなされていないものとして白書に記載はない。既に事業化が進む「スタンドオフ防衛能力の強化」と「反撃力」との関係や、どのような理由で、どのような能力が「反撃力」として必要なのかを一般の国民が理解することは困難であろう。また、岸田総理が日米首脳会談で言及した「防衛力の抜本的強化」のために防衛費の増額についても、概算要求前に必要な予算について言及できないことから、昨年度予算までの事実関係の記述に止まっている。対GDP比2%を念頭に置く圧倒的な増額が必要な理由は、白書からは読み取れない。これは白書そのものの限界というより、むしろ我が国における防衛政策の策定プロセスが抱える問題と言うべきものであろう。
 政治的な意志決定がなされるまで国民に問題認識を説明する場が無いこと、更には政治的に機微な案件は、「実利を取る」、「政治的混乱を避ける」という美名のもと先延ばしする、議論を避けるという政治的、官僚的な悪習が依然として存在することが問題である。現役が口に出せない本音を代弁する隊友会の政策提言や自衛隊OB有志の情報発信などが重要な理由でもある。

 安倍元総理は、平成30年1月、通常国会の施政方針演説において、防衛大綱(25大綱)の見直しを表明した際、「従来の延長上ではなく、国民を守るために真に必要な防衛力のあるべき姿」を考える必要性を強調した。それ以降、米中間の戦略的競争の激化、ロシアによるウクライナ侵略の生起・継続、ペロシ米下院議長の訪台に反発する中国の台湾周辺に置ける軍事演習の実施(我が国EEZ内への弾道ミサイル発射を含む)など、我が国を取り巻く安全保障環境は更に厳しさを増している。もはや冷戦期の考え方ややり方が通用する時代ではない。既存の枠の中で何ができるかを考えるのではなく、国の安全保障を全うする為に何をなすべきかを考える発想に転換しなければならない。
 今こそ、改めて「従来の延長上ではなく、国民を守るために真に必要な防衛力のあるべき姿」を追求する覚悟と気概を持って「戦略3文書」の見直しに臨むべきではないだろうか。岸田総理が強調する「防衛力の抜本的強化」や「真に必要な防衛費の積み上げ」という言葉の裏に「従来の政策の枠内で」という枕詞がついているようでは安倍元総理の遺志を引き継ぐことは出来ない。

ボストンだより(その6:令和3年1月10日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。
 

 皆様、新年明けましておめでとうございます。初めて新型コロナ禍の中で迎えた新年は、帰省や初詣も様変わりしたことと思います。困難な状況が続く中ではありますが、新春を寿ぎ、皆様のご健勝と明るい一年をお祈り申し上げます。
 (本稿校了の令和2年12月10日時点では)日本各地で感染拡大が続き、医療体制のひっ迫が懸念されています。米国も同様に感染拡大が続いており、一日の死者が3千人を超えた日もありました。ワクチンの開発に数社が成功し、間もなく接種が開始されるのは明るいニュースですが、社会全体に免疫が浸透するにはまだまだ時間がかかります。
 東京2020オリ・パラ大会の開催と成功には世界中の国々が日常を取り戻し、国境を越えた移動がある程度自由になることが必要です。本年がポストコロナ時代の幕開けとなり、自国Firstから国際協調への転機となるよう、日本も力を発揮して欲しいと思います。

 

 2020年は世界史に残る事件が多くありました。1年前に中国武漢で発生した新型コロナウイルス危機は瞬く間に世界中に拡大し、既に154万人以上の犠牲者を出し、政治・経済・社会・文化等人類のあらゆる活動に影響を及ぼし続けています。
 中国は徹底した都市封鎖によって国内感染を局限し、逸早く経済活動の再開に成功しましたが、初期対応の失敗と情報隠蔽、そしてその後の傲岸かつ利己的な外交は国際社会の顰蹙を買いました。
 香港国家安全維持法による一国二制度の無実化やウイグル自治区強制収容処での厳しい弾圧、さらには南シナ海・台湾海峡等での軍事力による現状変更や威嚇など、共産党独裁政権の無法ぶりが顕著でした。尖閣諸島に対する圧力もこれまで以上に高まっており、日本としては一歩も引かない覚悟と対応が必要です。

 

 パンデミックの最大の被害を受けた米国では、異例尽くしの大統領選挙による政権交代となりました。トランプ大統領は選挙に不正があったとの主張を変えておらず、訴訟もほとんど却下されていますが、共和党議員・支持者等の根強い支持を保っています。
 上院は共和党が多数派を維持する見込みであり、ねじれ議会と民主党左派の圧力に直面するバイデン次期大統領は、分断した国内の融和と国際協調路線を目指すものの、思うような舵取りは難しい状況です。トランプ氏は2024年の大統領選でのリベンジを示唆しており、その戦いに有利な環境を作るため、徹底してバイデン次期政権の足を引っ張ろうとしています。
 イランへの攻撃や各地域の米軍撤収、台湾の国家承認などが噂され、1月20日にホワイトハウスの家主が替わるまで、何が起きるか予断できない状況です。恒例のクリスマス装飾とは相反し、醜い争いがトップから市民まで蔓延しており、米国パワーの衰退は当面続きそうです。

 

 日本では菅政権の誕生、九州の豪雨・台風被害、藤井聡太最年少2冠獲得など明暗が混淆しましたが、個人的には宇宙に飛躍した年だったと感じています。5月には航空自衛隊宇宙作戦隊が発足、11月には野口聡一氏が初の民間宇宙船「クルードラゴン」で国際宇宙ステーションに到着、約半年間の活動を今も続けています。
 そして12月6日には6年間、52億キロの旅から「はやぶさ2」が帰還、地球に「玉手箱」を送り届け、また新たに未知の小惑星1998 KY26を目指す11年間、100億キロの任務に向かいました。

 

 極微のウイルスから無限大の宇宙まで、昨年を回顧しましたが、今年はどのような展望となるのでしょうか。冒頭で述べた通り、コロナ禍が終息しポストコロナ時代が始まることを願いますが、世界的に厳しい社会・経済状況が続くことは確実です。
 米国はバイデン政権が始動しますが、当面体制づくりと内政重視の運営とならざるを得ず、一方、中国共産党設立100周年(7月23日)を迎える中国は、権力を更に集中した習近平指導体制の下、「中華民族の偉大なる復興」に向け一層強硬に影響力の拡大を図ると思われます。
 トランプ政権で一気に対立モードとなった米中大国間競争にバイデン政権がどのような姿勢で臨むのか、日本としても気になりますが、まずは我が国自身の目標と戦略を明確にすることが重要です。

 

 菅政権は、コロナ対策と経済の両立、米中との二国間関係のバランス、東京2020オリ・パラと衆議院選挙のタイミングなど多くの難題に挑まなければなりません。デジタル庁設置による国のサイバーセキュリティ体制やデジタルインフラの強化も待ったなしの課題です(東洋経済オンラインの拙稿をご参考)。
 このような難局に当たって歴史をふり返れば、今年は、真珠湾攻撃80周年(12月8日)とサンフランシスコ講和条約署名70周年(9月8日)という戦後日本の起点、湾岸戦争30周年(1月7日開戦、3月3日終結)と米国同時多発テロ20周年(9月11日)という米国安全保障戦略の転換点、そして東日本大震災と福島第一原発事故という日本復興の始点から10周年(3月11日)という多くの節目を迎えます。
 時の流れは止まることが無く、いずれの歴史的事件からも其々の時を経て状況は大きく変わりました。そして、今年の難題に我々がどう対応するかによって将来の日本のあり方が決まることになります。

 

 中国の独裁政治は全く受け入れられませんが、中国の歴史の長いスパンで国家目標を定める構想力と、目標に向かって短期・中期の具体的計画を着実に進める実行力は、日本も見習うべきだと思います。
 中国は建国100周年の2049年10月1日を目指して中国の夢を追いかけています。日本も、2045年8月15日の敗戦100周年までに、私たちが理想とする新生日本の実現を目指してはどうでしょうか。
 内閣府は、人々の幸福に向けたムーンショット型研究開発で2050年までに達成すべき6つの目標を掲げています。これは科学技術の分野ですが、他にも憲法や安全保障、教育・文化など重要な分野で達成すべき目標を掲げ、実現に向けた行動計画を作る。2021年はそのような節目に相応しい年だと思います(初夢)。

ボストンだより(その5:令和2年10月10日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。

 

 今年の夏はコロナ対策のマスクと熱中症予防に悩まされましたが、会員の皆様はいかがお過ごしでしょうか。私は、9月16日にほぼ半年ぶりにボストンに戻り、深まりゆく秋の哀愁を感じながら、14日間の自宅検疫を過ごしています。

 

 ハーバード大学の所在するマサチューセッツ州の感染状況は比較的落ち着いていますが、米国のコロナ禍による死者はついに20万人に迫り、30を超える州で再び感染が拡大しつつあります。米国の医療費は高額で国民本位の公的制度が不備なため、コロナ禍の被害は取り分け未熟練労働者や有色人種系の低所得層に過酷です。
 ミネアポリスで5月下旬に起きた白人警官による黒人暴行死の被害者は、コロナ禍に伴う飲食店の休業で職を失ったCOVID-19陽性患者でした。この事件をきっかけに“Black lives matter.”を掲げる抗議運動が全米に広がり、人種差別や貧困格差などの根の深い対立が米国の分断を深刻にしています。

 目前に迫った大統領選挙も絡んで、様々な思惑を持ったグループ(Qアノン等)がインターネットやSNSで情報戦を展開しており、その向こうにはロシアや中国等のサイバー戦の影がちらつきます。
 マスクやワクチンに反対する過激な行動は欧州にも広がっており、G7では日本だけが例外的にこの種の反社会的運動を免れているのですが、巨大台風や洪水、広域山林火災にバッタの大量発生等、地球規模で続発する環境異変を考えると、私たちも無関心ではいられません。

 

 コロナ禍は芸術やスポーツという人類共通の交流も大きく制限していますが、大坂なおみ選手の女子テニス全米オープン優勝は、ニューヨーク・タイムス等の現地メディアでも速報される明るいニュースでした。無観客の試合場に大坂選手は、暴力の犠牲となった黒人の名前を書いた7枚のマスクを用意していました。
 決勝戦では、射殺された12歳の少年の名前のマスクを着用して登場し、優勝しました。スポーツの場における政治的な行為はしばしば批判や処分の対象になりますが、NYTの記事は、“A champion again, she made her point unmistakably on the court and off.”「再びチャンピオン(選手権保持者と主張支持者の両義)として、彼女は間違えようのないポイント(得点と論点の両義)をコートの中でそして外でも達成した」と、称賛しています。
 コロナ禍や人種差別など人類共通の問題を克服するには、弱者への共感と連帯が必要だと勇気をもって主張した大坂選手の姿勢への評価であり、私もその姿勢を共有したいと思います。

 

 渡米直前に、安倍総理は持病の潰瘍性大腸炎という難病の再発を理由に辞任されました。コロナ対策に伴うストレスが病状を悪化させたことは容易に想像できますが、その総理を「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」と、ある野党議員は批判しました。
 安倍総理の在任間の実績について国内メディアが批判的であるのに対し、米主要紙は平和安全法制やTPP11、またトランプ大統領との関係等を高く評価し、「安倍首相の辞任は、中国の強硬姿勢に対峙し、北朝鮮の核開発を抑制する中で、日本だけでなく、米国のアジアでの利益にも痛手になる」とワシントン・ポスト紙は社説で書いています。さらに、大統領選を激しく争う共和党トランプ大統領と民主党バイデン前副大統領の両方から辞任を惜しむメッセージが発せられており、安倍総理が掲げた「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」が党派を超えた日米共通の戦略として共有されていることを示しています。

 

 国家の最高指導者としての重責、そしてその責務を病気とはいえ自ら放棄せざるを得ないと決断した勇気と無念を、私たち自衛官OBは心から共感し、感謝すると思います。
 後を引き継ぐ菅総理始め、日本という船の舵取りを担おうと志す人たちには、他者への共感と宥恕の心を保持して頂きたいものです。多様化し分断・孤立化する社会が、感染症や気候変動等の危機、格差や差別等の問題を克服するためには、そのような心で結束するしか道はないからです。

 

 コロナ危機は国際関係を大きく変えつつあります。新冷戦とも形容される米中対立の一方、欧州は分断に傾いた流れを食い止め、欧州復興基金の創設を決めました。コロナ以前では考えられなかった債務の共有をドイツが受入れ、EU統合強化に舵を切ったわけです。中国は習近平主席の「中華民族の偉大なる復興」の号令下、西太平洋や一帯一路の地域とサイバー領域の両方で、軍事力を含むあらゆる国力を動員して大中華帝国を建設しようとしています。
 米中対立の最前線に位置する日本は、日米同盟を基軸に、欧州諸国等と連携し、中国も包含するFOIPを旗印に、国力の強化を図ることが必要です。時代に即した国家安全保障戦略の策定と防衛態勢の構築は待ったなしで実行しなければなりません。劇的に進化する新興技術や付随する各種イノベーションの導入もスピードが勝負です。

 

 再渡航の挨拶に訪問した私に、新空幕長の井筒空将は、「空自の進化、深化、真価」を目指すという抱負を熱く語られました。丸茂前空幕長の進化の取組みをさらに加速化させ、既存の能力や機能を深化し、さらに航空自衛隊の真価を追求していくとの考えでした。
 折しも、米国防高等研究計画局(DARPA)が進めている「Alpha Dogfight Trial」では、ヘロンシステムズが開発したAIが現役の空軍F-16パイロットに圧勝し、来年の夏にはAIを搭載した無人戦闘機とパイロットが操縦する有人戦闘機が実際に対戦を行う予定とされています。陸海空に加え宇宙・サイバー・電磁波の全領域で任務を全うするためには、AI等の革新的な能力も活用した“新”航空(宇宙)自衛隊への再生が必定です。年末までの各種検討において、大胆かつ迅速に新空自の“フライトプラン”が提示されることを祈願し、皆様と共に応援したいと思います。

ボストンだより(その4:令和2年7月10日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。

 読者の皆様、緊急事態宣言は解除されましたが、感染の再拡大防止のため、引き続き不自由な毎日をお過ごしのことと思います。私の一時帰国も2か月を過ぎ、残念ながら本記事もテレワーク中の自宅からお届けします。

 

 5月25日に緊急事態宣言が解除された日本の対応は、PCR検査数の少なさや強制力を伴わない自粛という対応に様々な批判や反対論がありましたが、結果的にWHO始め諸外国は成功と評価しています。欧米諸国等と比較して死者数が遥かに少ないことは事実で、医療や保健衛生の現場で治療や感染防止に尽力された皆様に感謝と敬意を表したいと思います。
 医療用マスクや防護服が不足し、自身も感染する不安とストレスに耐え、医療崩壊を何とか食い止められたのは、医療関係者の使命感だったと報道にあります。使命感に支えられた献身的な奉仕に対し、わが航空自衛隊のブルーインパルスは青空から感謝とエールを送りました。病院の屋上から手を振る医師や看護師さんの嬉しそうな表情が何よりの成果だと思います。

 

 自衛隊は、コロナ危機対処において感染者を一人も出さずに様々な感染対策の支援任務を遂行しました。市ヶ谷では出勤者を半数にする交代勤務で即応体制の維持を図りました。
 事態対処を専門とする実力組織の本領を発揮しましたが、一方で突然、否応なしにテレワークとなった結果、保全の効いた通信手段や業務資料へのアクセスの難しさ、オンライン会議の未習熟等、デジタル・インフラの不十分さが痛感されたと聞きます。自衛隊のみならず、給付金手続きの不手際など日本社会全体のデジタル化の遅れが浮き彫りになりました。
 感染拡大は小康状態にありますが、第2波は確実に来ると思われます。ワクチンや治療薬の開発と流通を急ぐ一方、今回の事態で明らかになった多くの課題を早急に改善し、第2波やウイルスの変異に備えることが必要です。
 海外から謎に見られている日本型措置の成功の要因(3密を自粛する国民の姿勢や肥満率の低さ、高齢者の予防体制、BCG摂取等が考えられている)を検証し、国際的な今後の対策に活かすことも重要です。同時に、個人の権利と公共の福祉を両立させる国家の危機管理制度について議論を深め、関係法令の制定や所用の備蓄等について改善する必要があると考えます。

 

 目を海外に転じると、各国指導者が「戦争」と形容せざるを得ない被害が未だ拡大を続けています。米国の11万人を超える死者数は第一次世界大戦の犠牲者に匹敵します。
 米国以外のG7を見ると、英4.1万、伊3.4万、仏2.9万、独8千、加8千を其々超えており、日本を除くG7が死者数上位12か国の半数を占めています(6月15日時点)。
 感染はブラジルからアフリカ等の発展途上国に移りつつあり、G7は経済活動の再開に向けて動き出しましたが、社会には大きな爪痕と後遺症を間違いなく残します。
 白人警官による黒人暴行死事件に端を発する米国の抗議デモと混乱、更にトランプ大統領の米軍投入発言とそれに対する厳しい批判は、その一例でしょう。在ボストン日本総領事館からは、「ボストンでも5月31日夜には複数の繁華街で商店の破壊・略奪,警察車両放火などに発展,逮捕者は50名を超えると報じられており,引き続き注意が必要です」との注意喚起メールが筆者に届きました。
 さらに、感染が大地震だとすれば、世界的不況はこれから来る大津波に例えられます。その対策に投じられる国費は各国の国防予算を長期にわたって圧迫するでしょう。日本にはコロナ後の世界を見据えた国民の命と生活を守る戦略が求められています。

 

 コロナ後の世界は何が変わるのでしょうか。グローバリズムの破綻、自国優先主義やポピュリズムの蔓延など様々な見方がありますが、ユーラシアグループ社長のイアン・ブレマー氏は「米中新冷戦と米国の孤立」が加速すると分析しています。
 米中の対立はコロナ危機以前から顕在化していましたが、コロナ危機は米中対立の争点を経済から政治に移すとともに、両国民の相手に対する感情を著しく悪化させました。強権的な都市封鎖で逸早く感染を封じ込めた中国は、欧米の感染拡大を自国にとっての好機と捉え、マスク外交や情報戦、東・南シナ海での軍事プレゼンス顕示、香港や台湾への圧力強化など、影響力拡大に邁進しています。
 一方の米国は、米空母の感染拡大に苦しみながらも、B-1Bを本土から派遣し、空自のF-15、F-2と共同訓練を実施する等、アジア太平洋地域の抑止力の維持に努めていますが、米中軍事バランスが中国優位に傾斜する実態に危機感を募らせています。
 カーネギー財団のクリスチャン・ブローズ氏は近著「Kill Chain」で、今後の米国の防衛を考える際には革新的な思考が必要だと言います。脆弱で代替のきかない大型兵器システムではなく、多くの安価な自動兵器を導入し、「中国の軍事的支配」を否認するような軍に革新すべきとの主張です。コロナ危機が証明した兵士の感染リスクと相まって、コロナ後の軍は無人化・遠隔化、そしてデジタル化が一段と加速すると思われます。

 

 コロナ危機は国境の遮断を余儀なくする一方、デジタル領域のグローバル化を一気に推し進めています。在宅勤務期間を利用し、私もZoomやTeamsの利用に習熟するとともに、「デジタル国富論」や「デジタル・デモクラシーがやってくる!」を読み、デジタル化がもたらす様々なインパクトを学んでいます。
 軍事についても従来の計画や発想に縛られない新たな思考と進化が求められています。今ほどダーウィンの名言を玩味すべき時は無いと思いますので、大変難しい課題ですが、現役の皆様のご健闘を祈念してお贈りします。

『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。』

ボストンだより(その3:令和2年5月10日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。
 

 米国の新型コロナウイルスの爆発的感染拡大が止まりません。この状況と諸般の事情を踏まえ、筆者は3月28日の日本航空直行便でボストンから成田に一時帰国し、本稿は3月31日に柏の自宅で執筆しています。
 出発直前のCNN(現地28日9時現在)によると、全米での感染者は102,702+人、死者は1,590人で、既に中国を抜き10万人を突破していました。31日午前4時(AFP)の米国での感染者数は153,246人、死者2,828人となり、3日足らずの間に5万人以上増加しました。全世界では約76万人が感染し37,000人近くが死亡しています。
 東京・首都圏も爆発的感染の瀬戸際にあり、何とか踏みとどまって欲しいものですが、本紙がお手元に届く頃どのような状況になっているのか、全く予断を許せない状況です。

 

 一体だれがこのような事態を予測したでしょうか?前回の新年号ボストン便りでは、東京五輪の成功や米中対立について考えましたが、パンデミックについては全く予想もしていませんでした。
 しかしその原稿執筆時(11月末)には、中国武漢でまさに最初の感染者が発生(しようと)していたのです。中国が初動対応に様々な失敗を重ねたこと(特に武漢封鎖の発表と実施までに8時間の間隙があり、その間に数十万人が武漢から脱出したとされる)については厳しく事実関係とその責任を問う必要があります。
 とりわけ現時点で終息を宣言し、感染が拡大する国々へ医療支援を提供することで、中国の対処の適切性と優位性を定着させようとするプロパガンダは断固拒否すべきです。一方で、初動の失敗もしくは危機感の薄さは、中国だけではなく、各国に共通する反省点だと思います。

 

 思い返せば、2月下旬に所用で一時帰国した際は、ダイヤモンド・プリンセス号の感染への対応が関心の中心であり、爆発的感染や医療崩壊などの危機感はほとんど無かったと思います。2月26日に米国に戻った際も検疫を受ける必要もなく、米国の生活も普段通りでした。
 その状況が一変したのが3月11日、日本が東日本大震災の9年目を迎えた頃です。筆者が所属するハーバード大学アジアセンターの仲間とお茶をしていた時に、大学当局から感染症への最初の対応方針が出ました。
 その後は矢継ぎ早に、全寮制の学部生が寮から退去を命じられ、25人以上の集会(授業、セミナー、食事会等)の禁止、オンラインへ移行等の指示がでました。数日後にはハーバード大学総長夫妻が感染したとのメールがあり、マサチューセッツ州もロックダウンしました(外出の自粛、レストランの営業停止など)。たった2週間ほどで日常が一変してしまったわけです。
 3月26日、一時帰国準備のため研究室を訪れましたが、ケンブリッジ通りに車両はほとんど走っておらず、メモリアルホールも閉鎖されていました(写真1:未添付)。大学構内も歩いてみましたが、いつもは学生や観光客が溢れているヤードに人影はなく、住人のいない寮と青空は絵葉書のように美しくはありました(写真2:未添付)。ハーバード大学の目下の懸案は、一年で最大のイベントの卒業式をどのような形にするかですが、世界は遥かに深刻な問題に直面しています。

 

 パンデミックの恐ろしさは、治療法が無く重症化すれば死に至る病が急激に拡大することですが、それだけではありません。グローバル化した現代社会は国境を越えた経済・金融・交通等のシステムによって支えられており、感染防止のため人の動きが止まれば国際社会全体がマヒを起こします。
 麻痺を局限するにはグローバルな国際協調が必要ですが、各国指導者は結局、国境によって国内の感染を封じ込め終息させることを優先せざるを得ません。共産党独裁の中国は強権的な措置による成果を誇り、権威主義的な国家体制の優位を主張しますが、徹底した情報統制や人権侵害の問題は顧みません。
 米国は民主的な手続きと個人の自由を尊重するため、対策の適時性や効率性に劣る面は否めません。さらに米国内では徐々にホームレスの姿が増えつつあり、治安悪化やアジア系住民に対するヘイトクライムの懸念から銃を購入する人が増えています。このようにウイルスは人体だけに止まらず、人の心にも感染し、その病毒は民主主義や国際社会の様々なシステムを侵しているのです。
 各国指導者が「ウイルスとの戦争」と言うのは誇大ではなく、まさしく人類がこの目に見えない敵とどのような形で戦い、克服するかによってパンデミック後の世界は決まるでしょう。

 

 筆者は東日本大震災の直後、福島第一原発事故対応を支援するため、官邸危機管理センターに派遣されました。放射線という目に見えない敵の恐ろしさと人間の無力さを感じつつ、大きな余震等による事態の更なる悪化に備えたことを思い出します。
 日本は放射線との闘いを今も続けていますが、今こそ国民は当時のことを思い出して欲しいと思います。新型ウイルスという同じく目に見えない敵は、日本だけではなく世界を感染させ、経済金融等へのリスクに止まらず、地政学的な脅威となって今度は外から迫ってくる恐れが強いのです。
 安全保障の要諦は最悪に備え、考えられないことを考える(Think unthinkable)ことです。1年後に延期された東京オリンピックを完全な形で実施するためには、世界中がこの見えない敵との闘いに勝つことが必要条件です。
 国民一人ひとりが強い危機感を持って国内の感染封じ込めに一丸となると同時に、日本が国際社会全体の取組みにおいて指導力を発揮することを願ってやみません。

 

今回の一時帰国がいつまで続くのか、現時点では全く見通せません。次号は米国から良いニュースをお届けできることを願いつつ、皆様のご健勝と安寧を祈念いたします。

ボストンだより(その2:令和元年12月1日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。



 読者の皆様、ボストンから謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 早いものでボストンに来て半年を迎えます。本年が平和で実り多き歳となりますことを心より祈念いたします。

 

 本稿は11月末に執筆していますが、読者の皆様には令和2年のお正月に届く予定なので、少し早いですが、令和元年を回顧し、新年を展望したいと思います。

 昨年は日本にとって、平成から令和へと時代が転換する節目の年となりました。

 恒例の10大ニュースのトップは間違いなく「天皇陛下御即位、令和改元」だと予測します。スポーツではラグビー・ワールドカップの日本代表チームの活躍で国中が湧きました。米国代表チームは残念な結果でしたが、ご想像の通り、米国ではアメフトに優秀なアスリートが集まるので、ラグビー人口は日本より少ないようです。個人的には渋野日向子選手の全英女子オープン優勝とその後の活躍に喝采を送ります。
 政治では、安倍首相の通算在職日数が歴代1位となり、世界の民主主義政治が不安定化する中で、日本の安定感は米国識者も高く評価しています。一方で日韓関係は、いわゆる徴用工問題を転機に、日本政府による韓国向け輸出管理厳格化、韓国内での日本製品不買運動、韓国政府による日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄通告(後に回避)と連鎖し、急激に悪化しました。
 GSOMIA破棄に関しては米国政府も巻き込み米韓関係へと飛び火しました。トランプ大統領の米軍駐留経費の大幅な負担増要求とも絡んで、日米韓の同盟関係をどのように維持・改善するかが本年の大きな課題となると考えます。余談ですが、韓国人の歴史学者が共同で執筆した「反日種族主義」は日本人必読の書であり、英訳されて米国でも広く読まれることを期待します。

 

 目を米国に転じると、トランプ大統領のウクライナ疑惑をめぐる弾劾手続きの開始が注目されました。下院の証人喚問ではquid pro qua(代償・交換条件)の有無が焦点となり、この難しいラテン語が昨年の流行語大賞でした(Jokeです)。

 弾劾手続きの進捗は本年の大統領選挙にも直接影響します。現状では共和党がマジョリティの上院で弾劾に必要な3分の2の賛成を得ることは困難とみられており、選挙戦を有利に進めるための民主党の戦略と手腕が問われています。その民主党候補には新たに大富豪のBloomberg前ニューヨーク市長が名乗りを上げました。ボストンはほぼ全員民主党支持者でトランプ氏を嫌悪していますが、民主党候補の誰を支持するかでは分裂しており、民主党の弱さを象徴しています。
 一方トランプ大統領は米国民の約40%の岩盤支持者の囲い込みに余念が無く、現状では再選の可能性が高いように思われます。トランプ氏は独自の損得勘定を基に外交安全保障も判断するので、日本は2期目への備えを早めにしておく必要があると考えます。さらに昨年一層激しさを増した米中貿易摩擦、特にアメリカ企業によるHuawei等の通信機器使用禁止と輸出規制リストへの追加に象徴される技術覇権争いは長期化が見込まれ、日本への影響も必至です。
 個人的には、研究テーマであるAIが将来の軍事バランスを変える最重要技術として米中共に軍事利用の研究開発・実装化に邁進しており、日本も戦略的な対応が必要です。航空自衛隊のAI戦略に寄与できるよう、研究を進めて参りたいと思います。

 

 令和2年は東京オリンピック・パラリンピックの年です。平和の祭典を成功に導くため、サイバー攻撃やテロ等の不測事態への備えに万全を期すことは当然であり、自衛隊の役割も大きいと思います。平和の祭典の開催には、安定した国際秩序と安全保障環境が前提となります。今年は台湾総統選挙、アメリカ大統領選挙をはじめ主要国で政治が大きく動くことが予想されます。 
 香港の抗議活動は区議会選挙での民主派圧勝と米国の香港人権法の成立に勢いを得て拡大する傾向にあり、中国の対応が懸念されます。桜の咲く頃には習近平主席の国賓としての来日が予定されており、日米同盟強化との両立に、安倍総理は難しい舵取りを迫られるかもしれません。
 日本を取り巻く安全保障環境は、北朝鮮の非核化が停滞する一方、米韓同盟が動揺する朝鮮半島、混迷する米国の外交政策に乗じ連携して軍事プレゼンスを顕示する中ロなど、本年も厳しい状況が続きます。このような時こそ、どっしりと腰を落ち着けて国家防衛の原点に戻り、憲法や自衛隊そして日米同盟のあり方を考える必要があると思います。

 

 56年前の1964年、前回の東京オリンピックの開会式で、航空自衛隊のブルーインパルスは青空に見事な五輪の“和”を描きました。諸先輩のご貢献に思いを致し、また現役諸官の一層の活躍を期待し、日の丸に彩られた平和の祭典をボストンから応援できることを初夢にしたいと思います。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ボストンだより(その1:令和元年10月10日号)

この記事は、F3プロジェクト・メンバーである尾上定正が、ハーバード大学アジアセンターのシニアフェローであった当時に「つばさだより」に連載していた記事を転載したものです。この「ボストンだより」は、番外編を含め計8篇です。月1~2編を掲載する予定です。

 読者の皆様、ボストンからご挨拶申し上げます。

 7月からハーバード大学アジアセンターのフェローに着任しました。還暦を過ぎてからまた米国で生活するとは思っていませんでしたが、貴重な機会を与えて頂いたことに感謝しています。

 私が前任者の磯部元陸将から引き継いだこのポストは、秋山元防衛事務次官がエズラ・ボーゲル、ジョセフ・ナイ教授の協力を得て設立、平成11年から13年まで自ら就任された後、陸海空の退職将官に引き継がれているものです。

 航空自衛隊OBでは永岩元航空支援集団司令官(平成19年~21年)、小野田元航空教育集団司令官(平成25年~27年)のお二方が就任されました。

 私にとっては、平成8年から2年間ケネディ大学院修士課程で学んで以来、2度目のボストン(正確にはケンブリッジ)になります。当時からボーゲル教授は「Japan as Number One」の著者として有名であり、ハーバード大学の日米プログラムの顧問としてもご活躍、私も色々とご指導いただきました。

 ボストンに到着したことを連絡すると、直ぐにランチのお誘いを頂き、7月18日(木)にハーバードの教職員クラブでご一緒しました。


 一週間前に90歳になられたばかりとはとても思えない食欲と好奇心で、早速質問攻めにされましたが、関心の中心はご専門の中国についてでした。近著の「China and Japan: Facing History」は500頁を超える大作で、和訳も7月30日に発売されていますが、中国語の訳本については当局の検閲中とのことでした。


 また現在は、来年11月に選ばれる新大統領(民主党の勝利を前提)に用意するための対中政策について、グレアム・アリソン教授と共同作業を進めているとの由。アリソン教授は安全保障研究の古典的名著「Essence of Decision: Explaining the Cuban Missile Crisis (1971)」の著者にして、御年79歳の現役教授です。二人合わせて169歳の知性が新大統領のために対中政策を一年以上かけて準備するということに、米国の奥行きの深さとバイタリティを痛感した次第です。


 因みにボーゲル教授は、現時点でまだ20人を超える民主党候補の党代表にはバイデン前副大統領が選出され、ハリス候補(カリフォルニア州選出上院議員、女性、非白人)もしくはウォーレン候補(マサチューセッツ州選出上院議員、女性、元ハーバード・ロースクール教授)を副大統領に指名することで、反トランプ票+女性票+マイノリティ票を期待できるとの見立てでした。大統領選挙はまだ1年以上先の長丁場ですが、早くもヒートアップしている状況です。

 

 一方のトランプ大統領は、大阪G-20サミット後の会見で、「日本が攻撃されたら我々は日本を守るために戦うが、アメリカが攻撃されても彼らは守らない。これ(日米同盟)は不公平だ。」と発言し、大きな衝撃を与えました。

 それに先立つ6月26日のFox Business’ Morningsのテレビ・インタビューでも、“If Japan is attacked, we will fight World War III. We will go in and we will protect them and we will fight with our lives and with our treasure. We will fight at all costs, right? But if we're attacked, Japan doesn't have to help us at all. They can watch it on a Sony television, the attack.” と発言し、「Sonyのテレビでアメリカが攻撃されるのを傍観する」というフレーズが米国の安保関係者(Japan Handlersと言われる知日派)の間で話題になっています。折しもイランとの緊張が高まるペルシャ湾でのタンカー護衛のための有志連合への参加を求められ、踏み絵を迫られているとの見方もあります。

 個人的には、米国大統領が「日本が攻撃されたら我々の命と財産をかけて、あらゆるコストを払ってでも第3次世界大戦を戦い、彼ら(日本)を守る」とテレビ放送で明言してくれたことに感銘を受けます。


 そのように有難く頼もしい唯一の同盟国が攻撃を受けた時に、Sony製はもう製造されていませんが、韓国製のテレビであっても日本がただ傍観することはあり得ないと私は思います。


 トランプ発言を巡っては様々な解釈があるようですが、日米同盟の本質の一面をついていることは確かです。日本は、この重大な問いかけに対して、小手先の対応(米軍駐留経費負担の増額や貿易交渉における譲歩等)ではなく、国家の生存と繁栄に係る戦略の問題として取り組む必要があると考えます。


 米国の同盟関係は日米のみならず、NATOや米韓同盟にも大きな変化が起きています。このような時こそ、19世紀の英国首相パーマストン卿が述べた「英国は永遠の友人も持たないし、永遠の敵も持たない。英国が持つのは永遠の国益である」という箴言に思いを致し、日本が持つべきものは何か、考えることが必要だと思います。

 

 2年間のボストン滞在期間中、このような現地報告を行っていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

「「専守防衛」の呪縛と誘惑」(令和4年6月:荒木淳一)

この記事は、公益法人隊友会の新聞「隊友」6月号の「発煙筒」欄に投稿した記事を転載したものです。
 

 我が国の基本的防衛政策の一つが「専守防衛」である。しかし、いったいどれくらいの国民がこの政策の意味と実態を理解できているのであろうか。 
 「敵から攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛の最小限にとどめ、また保持する防衛力も必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう」と防衛白書にある。
 ロシアによる国際法を無視した軍事的侵略によって民間人を含む多数の犠牲者を出し、国民の約1/4が難民として国外避難を余儀なくされ、必死の抵抗を続けるものの何時終わるか分からない戦いに巻き込まれたウクライナの現状は、「専守防衛」の顛末を暗示している。

 「専守防衛」は、わが国が保有する防衛力が憲法違反でないことを説明するための防衛庁長官の国会答弁が起源であり、憲法9条の解釈と表裏一体となっている。当時、日本が再び軍事大国化することを懸念する声は国の内外を問わず強く、宣言政策として一定の意味もあった。
 政策の実行に当たって防衛力の整備や運用に厳しい縛りを自らに課し、軍事的合理性や我が国防衛の為の実効性は度外視され、防衛力の保有そのものが優先された。米国製戦闘機は空中受油装置をわざわざ取り外して導入され、国産輸送機の航続距離は敢えて短く設計され、地対艦ミサイルの射程も相手国に届かないよう制限されてきた。
 その後、時代の変化と国民の自衛隊に対する理解と信頼の拡がりを背景に、しかし膨大な時間と政治的労力を費やして、この呪縛ともいえる自己抑制の範囲は徐々に拡大されて現在に至っている。しかし、依然としてその解釈の幅は広く曖昧である。


 年末の戦略3文書の見直しに向けて出された自民党の提言には、「専守防衛を堅持したうえで反撃能力を保有する」と書かれている。言葉遊びで堂々巡りする「敵基地攻撃能力」議論に終止符を打ち、速やかにその能力の獲得に向けて取り組まなければならないとの危機感は理解できる。
 しかし、「名を捨てて実を取る」との美名の下、「専守防衛」で本当に国民の生命財産を守れるのかという厳しくかつ本質的な議論を避ける甘い誘惑に政治が捉われていないか、見極める必要がある。「専守防衛」を見直さずに、何故「反撃力」が保有できるかを理解できる国民は決して多くない。
 「専守防衛」にかかる本質的な議論は、確かによりハードルの高い憲法9条見直しの議論を惹起するが、我が国の安全保障を全うするという政治家の強い信念と覚悟を測るリトマス試験紙となる。年末に向けた政治の議論に注目し、我々の投票行動に繋げなければならない。

組織の明るい展望に不可欠な要件(平成30年3月:福江広明)

この記事は、航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」No.114に寄稿した記事に加筆したものです。

1 再就職にあたっての最大関心事

   平成28年12月22日、36年にわたり奉職した航空自衛隊(以下「空自」)を定年退職。最終補職の航空総隊司令官職を離任するまで、組織力の結集による任務の完遂に専念する日々だった。

  
  異動の都度、補職に応じた隊務運営の指導方針を掲げ、所属隊員に対して明るく厳しく、爽やかな気風を維持しつつ、同僚を思いやる心を持つ碧き大空の武士(もののふ)であることを要望したつもりである。

  
  退職後、生活環境が一変した影響からか寂寥感に苛まれる。部隊指揮官としての責務から遠ざかることによって生じた心境に思えた。

  
  一方、基地内での居住義務、24時間の指揮連絡体制等からの開放感とそれによる安堵感は素直に嬉しかった。

  
  再就職という新たな勤務環境が気になる時期を迎えると、こうした感傷は何処へやら。履歴書を作成する傍ら、再就職活動の第一歩として取った行動は、会社のウェブサイトにアクセスして、最大の関心事である当該社の企業理念と目指すべき企業の姿(ビジョン)の確認だった。

  
  組織運営上の理念及びビジョン等といった事柄に強い関心を抱くようになったのは、現役時代に、ある業務を担任したのがきっかけであった。


2「長期見積り」からの学び

   平成13年8月、航空幕僚監部防衛課・研究班(同班は平成15年3月改編、廃止され現在に至る)の班長として着任。その直後から班員及び幹部学校に臨時編成された編纂チームと共に、防衛諸計画の一つである、概ね15年先を見通した長期見積りの作成に着手した。ただし、当該業務自体は前任者からの引き継ぎであり、既に1年余りを経過した時点からの業務従事となった。

  
  長期見積りは定期的に策定されていたものの、前例踏襲や実績重視が当たり前の予算制度の中にあって、その意義や有用性が十分に理解されにくい状況であった。

  
  しかし、そのような背景があったからこそ、少しでも組織に寄与する見積りとするため、空自創設以来、初めとなる組織理念、ビジョン等を明記することとした。将来における国家防衛の在り方及び各種航空作戦の様相を展望するにあたり、シナリオ・プランニング方式を導入する等、画期的な取り組みがなされた。

  
  特に、ビジョンについては、15年から20年先の将来を見据えて作成し、空自の長期航空防衛力運用及び整備の各構想案出に役立てることを目指した。

  
  策定から約15年を経過した現在、当時描いたビジョンの詳細を知る一人として、現実世界と比較してみて、いかに将来予測に長けていたか、あらためて作業に関わったチーム員を称賛したい。

  
  統合運用体制が整備され、自衛隊が様々な実績を上げていく中、防衛諸計画制度は逐次見直されるはずである。いずれは統合長期防衛戦略に一本化され、それまで各幕で作成していた長期見積り等は廃止されることになるだろう。もう既に制度変更が行われたかもしれない。

  
  この長期見積り作業以来、私は異動の度に配属先の部隊において、「○○部隊の将来展望」と称する文書を作製することを自らに課すとともに、部隊及び隊員教育の機会を活用して、今回のテーマである「理念」「ビジョン」並びに、組織の展望に不可欠な要件の三番目に上げる「現場力」を、自分の言葉で部下隊員に語ることに努めた。

  
  ここにあらためて整理した内容が、職責や階級を問わず多くの現役諸官にとって指揮統率上の参考になれば幸いである。

 

3 理念は、不変の価値観

   ここからは、組織の展望に不可欠な三つの要件について、空自組織に照らし合わせて、定義や具体的事項を説明してみたい。初めて取り組んだ組織理念の明示にあたって、次のように定義付けた。

  
  「空自の将来像を明らかにする上で最も重要となる基本理念であり、空自が未来にわたり存続、発展するとともに、その使命を全うし、国民の負託に応えるための根本となる価値観であり、不可欠かつ不変なもの。また、これは将来においてだけでなく、今日においても隊務運営の指針として、隊員があまねく銘記すべき共通の価値観」

  
  この定義を踏まえ、幾多の検討を経て、概ね次のような主旨の項目にまとめられたと記憶している。

 
 1 国家の主権保持及び国民の安全確保

 2 航空宇宙領域における迅速・的確な活動

 3 精強な組織の追求

 4 最先端技術と最適なドクトリンによる優位性の確保

  
  これら4項目については、現在でも共感が得られる内容ではないだろうか。しかし、不変とは言え、今後国内外の安全保障環境が変化していく中で、見直されなければならないものでもあろう。

  例えば、昨今取り沙汰されているサイバー、電子戦といった新たな領域が主戦の場として重要視されていることから、空自も同領域における戦力の優勢確保のために関与していくことは必然である。

 
  組織理念は、何より分かりやすく、人を鼓舞し、組織構成員の健全な一体感を生み出す根源でなければならない。この際、指揮官自らが率先して理念の浸透を目的とした熱意ある発言、行動を繰り返すことが重要なのである。

 

4 ビジョンは、あらまほしき姿なり

   次に取り組んだ新たな試みが、ビジョンの明示であり、「組織が目標として近未来に到達しようとする将来像」と定義した。

  また、ビジョン作成にあたっては、次のような考え方を基本とした。

 
  「将来にわたり、脅威及び事態に対応するため、常に航空防衛力の質的向上と必要な機能、能力の改善及び強化を図ることは、空自にとっての使命。国内外の安全保障環境の変化、これに伴い、見直される防衛力の役割等を中長期的観点から、分析及び検討することが必要。これを踏まえ、組織理念を中核とする明確なビジョンの下、各種事態にも対処しうる均整のとれた航空防衛力の整備を行うとともに、適切な運用を図ることが肝要」

  
  この基本的考え方に基づき、最終的に空自のビジョンを次の4つの項目に総括した。


 1 情報収集等、各種能力をネットワーク化した航空防衛力をもって、一元的指揮統制を行い、不断の警戒に任じ、事態の発生を抑止しつつ、これに備えること。

 2 航空輸送をはじめとする国際貢献に資する能力等をもって、平素より国際社会からの要請に応え、国際的責務を果たすこと。

 3 士気と練度の高い精鋭なる隊員をもって、精強な組織を維持するため、優れた人材を計画的な教育訓練の実施により養成すること。

 4 組織の行動規範となるドクトリンを策定し体系化を図り、隊務運営の方向性を統一し、常に組織の精強化を追求すること。

 
  これらビジョンが今日ほぼ現実のものとなりつつあることについては、現役の諸官に納得してもらえるはずである。 

  1は、JADGE(自動警戒管制システム)を優先整備することでほぼ期待どおりの機能を発揮するとともに、データリンクによるアセット間の連接を図り、さらなる進化を遂げようとしていること。
  2は、C‐2大型輸送機運用開始を予期する内容であり、確実に実績を上げつつあること。
  3及び4項に至っては、教育重視を掲げ、航空教育集団、幹部学校が主体となりドクトリン等を策定するとともに、教育改革に繋がる結果を出すところまできたこと。

  
  これらすべてのビジョンが実現に向かったのは、各種計画を着実に実行してきただけではなく、空自が一体となって理想の姿を追求する気概を持ち続けたからである。

 

5 現場こそ、機能発揮の担い手 

   「現場」とは、自衛隊という組織に照らしてみると、各種訓練・演習を中心に隊務が営まれている場所であり、任務を遂行する先端の部隊そのものであると言えよう。

  
  そもそも現場力という言葉自体は、従前から一般社会に浸透していたが、東日本大震災以降、被災地の復旧・復興を支える言葉としてあらためて各種メディアで取り上げられたこともあり、注目されるようになったと思われる。

  
  ある航空幕僚長は、常日頃から隊員の勤務状況、部隊の諸活動等、隊務運営に関心が高く、機会あるごとに現場力、現場感という言葉を多用されていた。この用語に対する私自身の解釈は、「任務遂行上の原動力」であった。

  
  また、私が空幕副長職にあった当時、偵察航空隊の隊員が空幕会議室において空幕長に対し、QCサークル活動の成果を発表する機会があった。その内容はもちろんのこと、プレゼンを行った空曹のきびきびとした態度、溌剌とした声量等に、現場力を見せつけられた感を受けたのは、私だけではなかったろう。

  
  空幕の配置において、行政、事業管理、予算等にかかわる業務に没頭していると、部隊の精強化、隊務運営の健全化といった本来目的を見失いがちである。勤務年数や業務の違いこそあれ、現場力の向上・強化に一人ひとりが熱意をもって継続的に取り組むことこそが、極めて大事だと考えさせられたことを思い出す。

 

6 企業においても重要な三要件

   こうした空自における経験から、冒頭述べたように、再就職先の企業理念及びビジョンが気になったわけである。

  会社員となって一年足らず。「三つの要件」の重要性は、当然のことながら企業経営の場でも変わらぬもの。私が勤務する三菱電機株式会社を例にとって紹介する。

  
  まず企業理念は、次のとおり。「三菱電機グループは、技術、サービス、創造力の向上を図り、活力とゆとりある社会の実現に貢献する」とある。

  
  不変の価値観を全社員に示すだけではなく、各社員が自らを律して能動的に実行に移すべき指針を①信頼②品質③技術④貢献⑤遵法⑥環境⑦発展といた「7つの行動指針」として定めている。この指針では、社員が社会貢献にあたり注力すべき要点を明確にするだけでなく、それぞれの方向性も併せて示している点が特徴である。

 
  ビジョンについては、企業理念の下、環境、資源、エネルギーといった今日的な社会課題の解決にあたって、企業として取り組む方向性を表している。その上で、目指すべき姿として、2020年までに達成すべき成長目標を定量的に示すとともに、豊かな社会の実現への貢献を掲げている。

  
  また、ビジョンの各要素の関連性や流れを一表にして分かりやすく表現している。特に、経営目標・指標を具体的な数字を用いて明らかにすることは、組織の永続性や発展性を確保する上で極めて重要であり、任務遂行型の空自とは異なる点でもあるようだ。

  現場力の把握にあたっては、機会あるごとに、主に鎌倉及び尼崎に展開する関係製作所を見学することとしている。

  
  今後とも、現地で活動する技師との間で、ビジョン実現の視点から意見交換を重ね、各種事業への具体的取り組み姿勢、意欲そして現場が持つ実力を大いに実感していきたい。

 

7 結びにあたり

   強い組織の基本は、ビジョンを共有することと言われて久しい。

  
  ただし、ビジョンは国家や組織に対してのみ有益であるとはかぎらない。ビジョンの有無は、個々人の人生に大きな違いが生ずるのではないだろうか。

  
  また、多くの人は無意識に自らのビジョンを描き、その実現に努力し続けているのではないだろうか。

  
  うした中にあって、個人のビジョンを自覚し、日常において積極的に具体的行動に移すことができる人が、充実した悔いなき人生を営み続けるのだと考える。

  
  では、私自身はどうであったかというと、個人的な夢や希望は多分にあったものの、あらまほしき姿など考えたこともない、と思っていた。

  
  ところが、今回草稿する中で、知らず知らずのうちに、眼にしていたビジョンが存在していたことに気付いた。

  自宅の小さな書斎の壁に、次の言葉が印刷された縦10㌢、横15㌢のプレートが掛かっている。

  
  『人は歳月を重ねたから老いるのではない。理想を失うときに老いるのである。人はその信念に比例して若くあり。疑いに比例して老いる。自信や希望に比例して若くあり。恐れや絶望に比例して老いる。

  サミエル・ウルマン(1840~1924)著「80才の才月の高みにて」より抜粋』

  
  これは、任官して初任地が習志野分屯基地であったことから、陸自習志野修親会の一員として加入した、いわば証明として授与されたものである。

  サミエル・ウルマンが描く人としての理想像であり、あるべき姿である。

  
  私は、36年の長きにわたり、あらまほしき姿が間近に存在していたにもかかわらず、残念なことに終ぞ自覚することはなかった。

  還暦を迎えた今年からは、この言葉を強く意識した上で、会社のビジョンに従い社会貢献を果たしつつ、自らのビジョンを実現して人生の高みへと歩みを進めていきたい。

「平和の尊さに『発想を飛ばす』為には」(令和2年11月:荒木淳一)

この記事は、公益法人隊友会の新聞「隊友」11月号の「発煙筒」欄に投稿した記事を転載したものです。

コロナの影響で、在宅勤務を含めて家で過ごす時間が増えている。ソーシャル・ディスタンスの確保や多人数での懇親会を控えること等、感染拡大防止の為に必要だと理解していても、人間にとって最も大事な人と人との直接的な関わりが減っていることの影響が懸念される。人との繋がりや絆、友情や愛情などの実感を求める欲求が強くなっているのか、余り興味のなかったTVの連続ドラマやバラエティ番組を観ることが多くなった。楽しみにしているのは、芸能人の様々な分野での才能を専門家が評価する番組で、特に俳句の部門は「先生」の的確かつ軽妙なコメントが秀逸であり実に面白い。見た目や芸風からは想像もできない意外な才能を発揮する様子を見る楽しさと俳句の奥深さや難しさ、その楽しさを実感できることが番組の魅力であろう。何処にでもある日常の一場面を切り取った写真から、「発想を飛ばす」ことにより、オリジナリティや実体験を的確に映像として表現している句が高く評価される。「発想を飛ばす」ためには、センスだけではなく、知識や経験に基づく深い思索や想像力、発想力が重要な鍵となる。さて、今般のコロナ感染症の拡大により、我々の日常生活は大きく変わった。何気ない日常や当たり前と思っていたことが制限されることにより、改めてその大切さに気付き、普通でいられることに感謝し、支える人達に感謝の念を抱く。自衛隊の仕事は大規模災害への対応や紛争の抑止など、所謂「非日常」な事態に備え、対処することであり、その活動は通常時であればなかなか国民の目に触れることは無い。自衛隊が目立たない方が良いと言われる所以でもある。しかし、人々の何気ない日常の前提となる平和は、防衛のみならず、外交、政治、経済などのあらゆる分野での目立たない活動や努力の積み重ねで初めて得られるものであり、何もせずに与えられるものではない。コロナ下で何気ない日常の有難さや支える人達に「発想を飛ばせる」人が、平和の尊さやそれを支えるために活動する人たちに「発想が飛ばす」コメントが余り聞かれないのはどうしてだろうか。「水と平和はただ」と考える人達は自らの命が危険に晒されたり、渇水の経験をしてないからかもしれない。国民の誰もが平和に直結する経験をすることは不可能であるから、せめて戦争や軍事、安全保障や国防に関する基礎的な知識を持たなければ、「発想を飛ばし」何気ない日常と平和の尊さに気付き、それを支える人達に対する感謝の念も湧かないのかもしれない。改めて安全保障や国防にかかわる国民教育の充実・強化が求められる。

航空自衛隊発足の歩み(その1)

この記事は、公益法人自衛隊家族会の防衛情報紙「おやばと」4月号のシリーズ特集記事「自衛隊発足の歩み」に投稿した記事を転載したものです。


1 日本における航空戦力の発展の経緯(第二次大戦終了まで)


 1954年7月1日、陸・海自衛隊とともに独立した組織として航空自衛隊が創設されました。定員6738人、練習機148機という陣容での船出でした。

 当時の関係者は独立空軍を建設するという夢に燃えていましたが、旧軍の遺産を引き継ぎ、警察予備隊、保安庁を経て新設された陸・海自衛隊と較べるとまさに「ゼロからのスタート」でした。さらに、敗戦後の9年間、民間航空の活動も停止させられた空白期間が存在し、民間航空を含めてジェット機の時代が到来していました。航空技術の進展に追随しなければならず、加えて操縦者や整備員等の専門技術者の養成と部隊建設を同時並行で進める必要があり、大変厳しい船出であったと言えます。

 これから航空自衛隊の創設時の話に移る前に、わが国における航空戦力発展の経緯を簡単に紹介したいと思います。二度の世界大戦を経て敗戦に至る経緯の中で、航空戦力の特性をどのように理解し、どう軍事に活用しようとしたか、なぜ独立空軍が誕生しなかったか等を理解することで、航空自衛隊創設時の苦労などがより理解していただけるものと考えます。

(1)日本における航空戦力の誕生と発展(萌芽期)

 わが国における航空への取り組みは、1877年の西南の役で気球を試作したことが嚆矢(こうし)であるとされています(柳澤潤氏、防衛研究所研究員)。

 1903年にライト兄弟(米)が世界初の有人固定翼動力機による初飛行を成し遂げましたが、わが国においても「玉虫型飛行器」という固定翼機の模型を作成し有人動力飛行を目指した二宮忠八という研究者がいました。残念ながら資金面の問題や軍部の支援を得られなかったことから、ライト兄弟に先を越され、研究を諦めました。

 しかし、近年になってその先見性と独創性から「日本の航空機の父」と評価されるようになりました。二宮はその後、航空事故による犠牲者が年々増加することに心を痛め、私財をなげうって事故犠牲者の供養のために京都府八幡市に「飛行神社」を創建し、自ら宮司として慰霊に務めました。

 この飛行神社は、航空関連の唯一の招魂社として今でも多くの航空・宇宙関係者が安全祈願や例大祭に訪れています。また、航空自衛隊の飛行部隊関係者も大変お世話になっている神社です。

(2)独仏からの航空技術導入と陸・海航空部隊の発達(黎明期)

 ライト兄弟の初飛行以降、わが国における航空への関心はどんどん高まりました。欧米に要員を派遣するとともに機体を輸入し、逐次国内生産や自主開発を進めるなどかなり積極的に取り組みました。1910年には、陸軍軍人の徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉がヨーロッパに派遣され、航空機の操縦技術を学んで帰国しました。その際輸入した機体(仏アンリ・ファルマン機、独ハンス・グラーデ機)によって、日本で最初の有人固定翼動力機による飛行に成功しました。これを記念・顕彰する「日本航空発始ノ碑」が両大尉の銅像とともに当時の代々木練兵場であった現在の代々木公園に残されています。

 この後、第一次世界大戦の主戦場であった欧州において、エア・パワーの用法と技術が急激に進歩するとともに航空産業が大きく発展しました。中国大陸における限定的な作戦しか経験できなかった日本は、航空に関する欧米の進展に追随できず、大きく水をあけられてしまいました。このため、第一次大戦終了後から、より積極的に欧米から軍人および技術者を招き、懸命にエア・パワーの運用法や航空技術の修得に務めました。

 陸軍は19年にフォール大佐を団長とする仏国航空団を、海軍は21年にセンビル退役大佐を長とする英国飛行団を招き、それぞれ欧州の最新鋭の航空技術等を学びました。

特に陸軍は、井上幾太郎航空本部長の強い指導の下、仏国航空団のみならず21年に来日したジョノー仏陸軍少佐からも航空戦術に関する指導を受け、欧米諸国からの遅れを取り戻すべく努力を傾注しました。

 当時の積極的な取り組みが、陸・海軍内で航空部隊が発展する大きな原動力になりました。

 

(3)空軍独立を巡る最初の陸・海軍の議論とその結末(発展前期)

 第一次大戦後、欧州戦線における航空戦での教訓を学び、わが国においても航空戦力をいかに組織するべきかについて検討するため、陸軍の発議で「陸・海航空協定委員会」が1920年に設置されました。陸・海軍が初めて合同で公式に空軍問題について検討する機会となりました。誕生して間もない航空戦力の重要性と革新性が認識されていたはずですが、半年余りの検討の結論は「陸・海軍に航空部隊を分属させ現状を維持する」というものでした。

 この当時、航空に対する組織的な取り組みは相対的に陸軍が先行していました。19年には航空に関する軍政と教育を統括する「航空部」が創設され、25年には「航空本部」へと発展的に改編されました。

 海軍においても米国における廃棄戦艦の爆撃実験が成功した情報を得て、自らも廃棄戦艦に対する航空機による爆撃実験を試みるなど、海軍内の航空関係者の士気は高揚しており、海軍内での航空に対する認識も高まっていました。しかし、対空砲を持ち機動する戦艦を沈没させることは容易ではないことから、戦艦が海上武力の根幹であるとの「艦艇主兵論」が海軍内の主流の意見である状況は変わりませんでした。

 当時、陸・海軍の航空関係者の中には、欧州戦線での教訓や航空戦力の本質、進展性を踏まえて、独立空軍の建設を主張する意見もありましたが、陸・海軍の主流意見ではありませんでした。このため、陸・海軍が初めて合同で行った空軍問題に関する検討においても、運用・教育上の理由から海軍は反対し、陸軍内部も分離独立させる意志が主流とはなり得ず、空軍独立には至らなかったとされています。当時の日本が置かれた地政学的な位置づけ(欧州に比べるとエア・パワーを有する脅威となる国が周辺に不在)と航空機の能力的な限界から、戦術的な考察が主体であり、航空戦力の戦略的な運用に関する議論が低調であったことも理由の一つとして指摘されています(柳澤潤氏)。

 他方で、陸・海軍ともに砲弾のように工廠に頼ることなく民間航空産業に航空機の生産を依存していたことから、民間航空の育成に力を注いでいました。その結果として、20年代前後に、日本の主要航空機を生産することになる中島、川崎、三菱、愛知、川西、立川などの航空会社が誕生し、その後の航空技術力の発展に大いに寄与しました。

 (4)諸外国における空軍独立の動きと国内議論の顛末(発展後期)

 第二次大戦に至る趨勢はジュリオ・ドゥーエ(伊)、ウィリアム・ミッチェル(米)をはじめとするエア・パワーの思想家たちが大いに活躍していました。独立した空軍による一元的な作戦(戦略爆撃)が戦勝を導きうると主張し、政治のみならず国民を巻き込んで活発な議論となっていました。その結果、1930年代半ばまでに英国に続き伊、ソ連、仏、独と欧米列強が独立空軍を持つようになりました。このような情勢に触発されるとともに航空技術の発展も相まって、再び陸・海軍内において航空戦力を独立空軍的に運用する考え方(陸「航空撃滅戦」、海「戦略爆撃」「航空主兵、戦艦廃止論」)が台頭してきました。

 そこで陸軍航空関係者から再び、空軍独立に関する検討の呼びかけがありましたが、海軍の反対によって検討委員会の立ち上げすら実現しませんでした。海軍の反対理由の一つは、統一・独立した空軍になると政治力の強い陸軍の支配下に入れられ、海軍の作戦に役立たなくなること、優れている海軍航空が遅れている陸軍航空に引っ張られレベルが下がることなどであったとされています(柳澤潤氏)。

 この戦間期は、第一次大戦後、最初に空軍問題検討がなされた頃に比べて航空技術の進歩もあり、陸・海軍の補助的兵科から独立した用法への展望が開けたものの、特に保守的傾向が強かった旧軍内では、兵科間の勢力争いも繰り広げられており、陸・海軍内において用兵思想の主流には成り得ませんでした。戦略的にも、陸軍は最大の陸軍国であるソ連を、海軍は最大の海軍国である米国を仮想敵国とするなど国家戦略の調整すらできなかった国防方針の下では、航空戦力を独立させることは不可能であったといえるでしょう。   (以下次号)

  (自衛隊家族会運営委員 荒木 淳一)


 

航空自衛隊発足の歩み(その2)

この記事は、公益法人自衛隊家族会の防衛情報紙「おやばと」5月号のシリーズ特集記事「自衛隊発足の歩み」に投稿した記事を転載したものです。

2 空軍建設構想と航空自衛隊創設の胎動

 1945年の敗戦後、一旦解体されたわが国の軍備が、冷戦環境の激化、朝鮮戦争の勃発等を受けて、警察予備隊、保安庁を経て陸海自衛隊創設に至る経緯については、これまでの記事をご確認ください。

 ここでは、旧陸・海軍軍人の空軍研究の概要と陸海軍合同の意見書を出すに至る経緯を簡単に振り返ります。また、47年に独立したばかりの米空軍が航空自衛隊の創設に深く関与し、大きな役割を果たした経緯にも触れたいと思います。

(1)旧陸・海軍軍人の空軍研究とその帰結

 ア 旧陸軍航空関係者の研究概要

 多くの国民が軍に対する嫌悪感を拭い去れない中にあっても「航空で負けては話にならない」と身に染みて感じていた航空関係者は、旧軍人のみならず民間団体も含めて独立空軍の創設に関する研究を行っていたようです。

 1950年の初め、旧陸軍の航空関係者6人を主体とした有志が「日本空軍創設研究」を始めました。いずれも旧陸軍航空出身者で、三好康之(陸士31期、元少将)、原田貞徳(同)、谷川一男(同33期、同)、秋山紋次郎(同37期、元大佐)、浦茂(同44期、後の航空幕僚長)、田中耕司(同45期、同)のメンバーでした。

 彼らの基本的な考え方は、旧軍のように陸海軍に従属する航空ではなく、独立軍種としての空軍が独立国には必要であるというものでした。また、当時の経済や産業、技術の実情を踏まえ、実現可能な構想を立案しようと考えていました。防空主体の独立空軍の建設を念頭に、まずは東京要域を、次に日本全域の防空を自ら担えるよう二段階で空軍を整備するという考え方でした。先の大戦で本土防空を担った旧陸軍航空関係者が準備を進め、構想実現の段階で旧陸海軍双方から人材を集める考え方でした(「航空自衛隊創設期の旧軍航空関係者の役割と米空軍の関与について」中島信吾氏、西田裕史氏著)。

 彼らは、旧海軍関係者との間で意思疎通を図っていたものの、独自の検討を進めていました。「空軍兵備要綱」と名付けた研究案と「航空戦力創設に関する意見書」を作成した際、改めて海軍と調整する必要があることを認め、陸軍案単独で意見書を提出することを断念し、海軍関係者との調整を開始しました。一方で、52年6月、辰巳栄一元陸軍中将が吉田総理に口頭で内容を報告するとともに同年7月、ワイランド米極東空軍司令官にも6人の連署による「日本空軍創設に関する意見書」を提出しています。調整が難航して空軍建設の意見提出が遅れることを懸念しての動きであったと思われます。

イ 旧海軍航空関係者の研究概要

 一方、旧海軍関係者の航空再軍備研究は、米国から貸与される艦艇の受け入れと運用のための組織を検討するY委員会の検討を引き継いだものでした。旧海軍関係者の航空再軍備研究に関する証言や資料は旧陸軍関係者のものに比べて少ないものの、主要メンバーは愛甲文雄(海兵41期)、池上二男(同)、奥宮正武(同58期)、その上に福留繁(同40期)、保科善次郎(同41期)が航空技術懇談会において航空再軍備研究を行っていたとされます。

 彼らの基本的な考え方は、先の大戦において陸軍航空が海軍航空に比べ島嶼・海洋での作戦能力が著しく劣っていたことから、旧海軍航空と似たものでなければならないというものでした。つまり、旧海軍関係者の航空再軍備研究の目的は、水上艦艇部隊と一体的に行動できる航空防衛力の創設であり、海空一体の航空再軍備を目指したものでした。事実、1952年1月に、旧海軍関係者から米極東海軍司令部に提出された「新空海軍建設計画」は、海軍の中に航空部隊を建設するというものでした。

ウ 吉田首相へ合同意見書「航空自衛力建設促進に関する意見書」の提出


 前述のように、旧陸・海軍航空関係者の空軍再編に関する研究内容は本質的に相容れないものであったにもかかわらず、1952年11月に「航空防衛力建設促進に関する意見書」およびその具体策である「空軍建設要綱」が吉田総理に旧陸・海軍合同で提出されました。旧陸軍案が口頭報告されてからわずか3カ月弱で陸海軍関係者が連署した合同意見としてまとまった最大の要因は、陸・海軍の再軍備、すなわち陸・海自衛隊の創設が先行する中にあって、航空自衛隊の創設が取り残されることに対する焦燥感であったと指摘されています。関係者の話を総合すると、陸が海を説得し、同じ航空関係者という立場から、早に第三幕僚監部(航空幕僚監部)をつくるべきとの意見書を連名で出そうということになったそうです。

 大戦中のわだかまりは捨て、まずは防空主体の航空防衛力を建設し、規模が拡大した時点で海洋作戦も視野に入れた航空防衛力を育成することとし、まずは「空軍の芽を吹かせよう」と説得された海軍航空関係者が陸軍案を基礎に起案したものと考えられています。空軍建設の願いが長年の陸・海軍の確執を乗り越えさせたと考えられます(中島・西田氏の前著より)。

 合同で提出された「空軍建設要綱」では、独立空軍の創設を2期6年の二段階で整備する計画で、第2期完成時には航空機数は約3千機以上(軽爆撃機108機を含む)が計上され、隊員数3万5千人という壮大な構想でした。中島・西田氏の研究によると、先ほど述べた旧陸海軍関係者の航空再軍備研究の内容が後の自衛隊創設に係る検討を行った制度準備室に引き継がれた形跡はなく、空自創設に直接的に結びついたわけではないとされています。しかし、少なくとも総理や米軍高官に旧軍の航空関係者の意見が届けられたことによって、この後述べる米国・米空軍の関与を受け入れる国内的な素地をつくったとも考えられます。

(2)米空軍の関与と空自創設に果たした役割


 中島・西田氏の研究によると航空自衛隊創設の直接的契機は、1952年の夏から秋にかけて多発したソ連の領空侵犯事案であり、共産圏からの経空脅威に対する認識が日米双方で高まったことであると指摘されています。当時、米極東空軍隷下の第5空軍は朝鮮半島における航空作戦に専念しており、日本の防衛を主任務とする日本防衛空軍(Japan Air Defense Force・JADF)が日本周辺の警戒監視や領空侵犯に対する措置を担っていました。ソ連からの経空脅威に対する認識が米国内でも高まり、日本に適切な空軍力を発足させるよう支援することが米政府内で決定され、全面的に後押ししていくこととなりました。これ以降、60年に全国24カ所のレーダーサイトの業務移管を完了し、対領空侵犯措置のための警戒待機を全国で実施するようになるまで、米空軍は物心両面において空自を支援しその発展を全面的に支えました。

ア 航空自衛隊創設への支援と具体的な活動

 1953年8月に米極東空軍司令官ワイランド大将から「独立空軍の建設に支援を惜しまない」旨の書簡が日本政府に届けられました。その後、直ちにルペリー大佐を指揮官、ブラウン少佐を訓練官とする在日航空顧問団が発足しました。

 これ以降、航空顧問団は保安庁制度調査委員会からの近代空軍建設に関わるあらゆる質問に対応するとともに同委員会の作業を全面的に支援しました。さらに米本土の教育コマンドから教育訓練の専門家であるアービング大佐が来日し、後の空自建設計画の骨子(方針、整備目標、施設整備、後方補給、教育訓練)を示す「ブラウン・ブック」を提示しました。制度調査委員会はこの内容を受けて、空自建設を初めて盛り込んだ「第7次案」を概成することとなりました。在日航空顧問団はさらに制度調査委員会別室(空自担当)の協力を得て後の空自建設における飛行訓練・技術訓練計画「ピンク・ブック(表紙の色がピンクであったことから)」を作成しました。この計画は教育コースの概要、カリキュラム、必要人員、資器材に至る詳細なもので「ブラウン・ブック」と併せて53年の2次防案の作成時まで航空防衛力整備に大きな影響を及ぼしたとされています。

 また、54年3月に日米相互防衛援助協定(MDA協定)が結ばれると、顧問団は米国から供与する装備品の運用能力を付与する任務を持つ第6024訓練群へと発展的に改編されました。この他にも訓練全般を効率的に推進するための協力体制も整えられるなど、極東米空軍ならびに米空軍からの全面的支援を受けながら空自創設のプロセスは進むことになりました。                   (以下次号)

  (自衛隊家族会運営委員 荒木 淳一)


 

航空自衛隊発足の歩み(その3)

この記事は、公益法人自衛隊家族会の防衛情報紙「おやばと」6月号のシリーズ特集記事「自衛隊発足の歩み」に投稿した記事を転載したものです。

3 防衛庁航空自衛隊の発足

 1954年7月1日、航空自衛隊が新に創設されました。

 東京・深川越中島において、木村篤太郎防衛庁長官以下の防衛庁関係者、米軍事顧問団長等の列席の下、航空幕僚監部の開庁式が行われ、航空自衛隊の門出を祝いました。しかし、創設のための各種準備は思うようには進んでおらず、式に参加した隊員の大部分は空自の制服が間に合わず、陸・海の制服だったそうです。

 空自創設と同時に編成された部隊は、予め操縦教育開始に備えて準備が進められていた臨時松島派遣隊(基本操縦教育)のみで、その後9月までに操縦学校(浜松)、幹部学校(防府)、整備学校(浜松)、通信学校(浜松)、第一航空教育隊(小月)と教育関連部隊が次々と新編されました。

 60年度末を目途に約7年で33個飛行隊を擁する近代空軍を建設するという高い目標を掲げての出発でした。

 しかし、自ら出来ることは旧陸海軍航空関係者の人材確保のみで、基地は米軍からの返還を期待、航空機は米軍からの供与を期待、教育も米軍に期待と、「独立空軍建設の意気に燃えながら徒手空拳の発足」であったと当時の関係者は述懐しています。 それでも、米空軍と陸上自衛隊の積極的な協力支援を受け、「兎も角、一応の体制を作り上げる」ことを目標に、部隊建設が急ピッチで進められました。創設から3年半後の57年度末には、定員2万3千人弱、839機(戦闘機266機を含む)を擁する体制へと発展しました。

(1)航空機分属問題の決着

 空自創設にあたり、以前から結論を得られなかった「航空機の分属」問題が再燃しました。先の大戦の教訓から「航空自衛力は独立戦力として建設し、一元運用することが日本の自衛上、又経済的な軍備の見地からも絶対必要である」としていたにもかかわらず、実際に三自衛隊が編成される直前になり、陸・海自衛隊が共に航空機の分属を希望したことから議論が再燃したのです。

 制度調査委員会における検討においても、統合論、分属論共にそれぞれ一長一短ありとして結論は先送りされていた問題でした。 防衛庁発足直後から大きな議論となり、航空部隊を統合幕僚会議議長に直属することも検討されるなど意見調整は難航しましたが、1954年8月に、「航空機の分属等に関する長官指示」が発出され決着しました。それは「自衛隊における航空機の分属問題は、航空自衛隊が主導的立場を持つものの、陸は連絡機及びヘリコプター、海は対潜哨戒機及びヘリコプターを保有する」というものでした。

(2)空自の創設期の課題:「産みの苦しみ」

 分属問題以外の課題は、使用基地の決定・取得、そして要員の確保と養成でした。

 旧陸軍飛行学校跡地で使用可能な滑走路もあった浜松では、1953年から既に保安隊航空学校の操縦教育が開始されていました。しかし、その他の旧陸海軍の飛行場の大半は米軍管理下にあり、返還申請から始めなければなりませんでした。米顧問団のルペリー大佐、ブラウン少佐と準備室メンバーが各飛行場を視察し、6つの基地(防府、水戸、松島、美保、焼津、立川)の返還及び使用許可を求めました。

 最初に共同使用が認められたのが、松島基地であり、空自創設と同時に臨時松島派遣隊を編成することが出来ました。しかしその他の基地については、返還時期の見通しが立たず、部隊配置計画の確定が遅れたり、多くの変更が生じたため、部隊建設全体計画の遅れを招くなど、創設期に大きな影響を与えました。

 要員の確保に関しては、他の問題に比べると順調に進捗しました。当初予定の6738人の約半数は、陸・海からの転官、残りを公募により充足することが出来ました。それでも、創設時の空幕の編成(4部16課1通信所)の内、12の課長が欠員で完全充足までに5カ月を要しました。また、陸・海自と異なり母体の無かった空自は、毎年4千人から6千人の隊員を募集しなければなりませんでした。

 米空軍の積極的な協力・支援にもかかわらず要員養成は遅れがちで、特に操縦要員の養成は大幅に遅れていました。その最大の原因は操縦要員の語学力の問題と要員養成の実態を越えたペースでの部隊建設計画であったと言われています。更に、空自が各種業務を処理する上で基本となる規則類の制定が遅れていました。陸自の訓令達を準用したり、米軍の規則類を翻訳して採用していましたが、様々な矛盾や誤解を生み、部隊建設の遅れの背景となりました。

(3)航空大事故の続発と源田検閲による再出発

 空自は、部隊建設を急ピッチで進める中で、1956年~57年にかけて航空大事故が連続して発生するという厳しい試練に直面しました。56年の大事故は11件(ジェット機4件)で25人もの隊員を失いました。当時の米空軍の大事故発生率の約2倍にも及んでいました。その様な中、57年5月、第2航空団で機動展開中の墜落事故が発生し、部内外に大きな衝撃を与えました。この時、第2航空団は、予てからの計画に基づき、浜松基地から千歳基地に移駐するため、F―86F10機、T―332機の先遣隊を空中機動させました。しかし、悪天候により千歳付近でF―86F2機が墜落、1人が殉職、代替基地へ目的地を変更した機もあり、千歳に到着したのはF―86F4機、T―331機でした。

 これに追い打ちをかけて同年6月までの1カ月間に大事故7件が連続して発生し、殉職者5人、重軽傷者各1人という深刻な事態となりました。このため、佐薙航空幕僚長は、57年6月21日、空幕副長の源田実空将を検閲官とする全飛行部隊に対する飛行安全にかかわる検閲及び指導(所謂「源田検閲」)を命じました。

 この検閲では、事故多発の根本原因として、部隊建設のペースと要員養成や後方態勢の実態との間に、大きな不均衡が生じていたことが指摘され、中央が措置すべきと勧告された項目は579件にも及びました。当初の部隊建設計画は、実行の過程で多くの計画変更や遅れが生じたにも拘らず、十分な検討、修正が行われないまま性急に計画を追求したことが、根本原因とされたのです。そしてその成果は、次年度の航空事故の大幅な減少となって現れました。 

 この源田検閲は、航空事故防止を当面の目標としつつ空自の部隊建設事業の仕切り直しと再出発を意味するものとなりました。

(4)「独り立ち」に向けた基盤の整備

 空自はこの「産みの苦しみ」ともいえる苦難に満ちた創設期を乗り越えて、当時、米空軍が行っていた我が国周辺における対領空侵犯措置のための警戒監視や警戒待機等の任務を引き継ぐことを通じて、「独り立ち」を果たしていきました。

 この際、ジェット戦闘機の操縦要員の養成は、困難の連続でした。旧陸海軍の操縦経験者を集めた技量回復課程(R課程)であっても、淘汰率が当初20%を超えていました。1957年の段階でも、R課程30%以上、新人課程は50%を超える淘汰率であり、部隊建設に大きな遅れをもたらす要因の一つでした。

 また要撃管制に関しては、全く経験したことの無い任務であり、米空軍の教育を白紙的に受け入れると共に、各レーダーサイトで実任務を行う米空軍のクルーの中で実務訓練(OJT)を受けることになりました。しかし、英語による意思疎通の苦労のみならず、米側の受け入れ態勢が十分に整っていなかったため、北海道や離島においては、天幕宿営、運搬食、米軍の厚生施設の使用は出来ない等、大変厳しいものでした。しかし、各隊員の旺盛な意欲と工夫によって何とかOJTの計画は進み、米軍から任務を引き継げるようになったのでした。

 航空自衛隊が米空軍から任務を引き継ぎ、対領空侵犯措置を始めたのは58年です。2年後には全国24カ所のレーダーサイトの移管を全て完了し、全国で対領空侵犯措置のための警戒待機を開始しました。そして61年度には、3個航空方面隊からなる航空総隊の体制を整備し、偵察航空隊も編成、第1回空自総合演習を実施するまでになりました。

 更に、作戦支援機能を担当する管制、気象、航空救難、航空輸送の各部隊も、概ね61年度までに運用基盤を概成させました。

 後方部門でも、60年度末には後の補給統制処の前身である資材統制隊が編成され、整備・補給部門の基盤も概成。教育部門でも、59年に、飛行教育集団、翌年に術科教育本部が編成されるなど教育体制も概ね整備されたのでした。

 このように空自は、創設期の苦難を組織一丸となって乗り越え、将来に向けた飛躍の基盤を築くことが出来たのです。

(自衛隊家族会運営委員荒木淳一)



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